バーンサバイニュースレター第12号


バーンサバイニュースレター第12号
 

誰の罪ですか?  ― 植田 仁太郎

弟子達がイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。 それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (新約聖書、ヨハネ福音書9章2〜3節)
人は健康に恵まれ、まさに健康に暮らしていても、絶対に病気にならない、絶対にケガなどしない、という保証はどこにもない。私たちひとりひとりの身体は、私のものであって、私のものではない。確かに「私」という人間を成している私の身体であっても、私がその身体のメカニズム全てをコントロールしているわけではない。コントロールできるなら、病気になる ことはない。しかし、そうではないことを、 みんな知っている。 私くらいの年齢になると、先輩や同僚を病気で亡くすこともある。私自身もいつ そうなるかも知れない。しかし、何故私ではなく、「彼」がガンに冒されることになったのか、何故私ではなく「彼女」が難病にかかることになったのか、問うても答は無い。その人が病に陥った原因はある程度説明できるかも知れない。過労だったとか、そういう体質だったとか、昔の事故が原因だったとか。 しかし、同じ条件の人が必ずその病に陥るかどうかというと必ずしもそうではない。もつと複雑な要素がからみ合っている。だから何故私ではなく、彼、彼女が、と問うても答がない。 HIVに感染する一般的経路は説明できる。しかし、同じ行動をするあらゆる人が感染するわけではない。その行動には必ず感染源と思われるパートナーを伴うというところに、偏見が生まれる素地がある。 冒頭の聖書の一節のように、「この病 気に感染したのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。パートナーですか。それとも・・・」と問うことはできる。しかし、ここでも、答は「誰の罪でもない。 神の業がこの人に現れるためである。」とおっしゃるイエス・キリストのことばどおりであろう。 神のわざは、強い人間、健康な人間、才能あふれる人間、だれからも尊敬される人間に現れるのではなく、全く逆の人間に現れると、イエスは教えていると思う。
バーンサバーイは、神のわざが現れた人々が居ることを知って、その周りに人々が馳せ参じたところから始まった。 今も、その人々とその人々を囲む人々に神のわざが現れている。
(日本型公会束京教区主教)

マリ通信(2007年11月〜2008年5月入寮状況)  ― 早川文野

チェンマイは雨季で、毎日のように雨 が降ります。雨は天からの恵みですが 庭の芝や草も急成長し、手入れがたいへんな季節でもあります。今年は大雨が降ると停電になることが多く、とくに夜はすべてが中断されます。ある停電の夜、 室内は暑いので庭先に椅子を持ち出し、タ涼みをしました。蛍がたくさん周囲を飛び回り、幻想的な雰囲気が漂っていました。停電のおかげで、思いがけず蛍鑑賞会ができました。
さて2007年11月から2008年5月までの入寮者数は、成人22名(男性12 名、女性10名)、子ども1名でした。そして、5名(男性4名、女性1名)の方が、 他界されました。新しい方が入寮するたびに、元気になって退寮することを願いますが、時折それがかないません。 ところでこの夏、自立支援事業で働いていましたRさんが巣立ちました。Rさんはお料理が好きで、その味もよいのです。
バーンサバイでも、いつも美味しい昼食を作ってくれていました。彼女は以前から飲食店を開店する夢を抱いていました。 Rさんと出会って5年の時間が流れ、とうとうその思いが実現しました。ここまでの道のりを考えますと、考え深いものがあります。気分屋で、自分の人生や生命を 斜めから見ているような性格ゆえに、私たちも右往左往しました。幼い時に家族に捨てられ、その後ストリートチルドレンになり、1人で生き抜いてきた日々。HIV に感染してからは、死線を何度もさまよっています。もともと賢く才能もある人ですが、今まで自分の能力を試したり、実践する場や機会が与えられませんでした。 そのため、今回の機会を生かしてほしい と考えています。これからの人生も決して平坦ではなく、紅余曲折を経ると思いま す。しかし何とか1つ1つ乗り越えて行ってほしいと願っています。チェンマイにいらした時は、Rさんの店に是非立ち寄っていただければ、幸いです。
Sさん(男性、22歳) –
Sさんはチェンマイ近郊で生まれ、育ちました。母親違いの兄と同じ母親から生まれた姉がいます。生後8ヶ月の時に 両親が離婚し、母は姉を連れ、他県へ移りました。まだ赤ちゃんであるSさんは父親の元に残されました。父親は浮気性で朝から酒を飲む人です。父親は働かず、出家している長男からお金をもらって生活をしています。このような中でSさんは育ちました。 昨年のクリスマス、スタッフがバーンサバイを退寮して、また野宿生活に戻った男性に会いに行った折、「新しく子どもが野宿の仲間に入ったが、エイズで唆をしている」という相談を受け、Sさんに会いました。体がとても小さいので子どもに見えますが、実際は22歳の男性でした。翌 日スタッフが彼を再度訪ねたところ、病 院へ行きたいと言うため、病院へ行き、 入院となりました。医師は点満をすると言 いましたが、本人がどうしてもいやだと言うため、注射と薬で治療することになりま した。初めは話しかけても反応がなく、壁 に向かって話をしているような感じでした。 しかしそのうちに少しずつ会話に近いものができるようになってきました。彼は10代の時にはバイク修理店で働いたり、出家をしていたこともあったそうです。寺から出た後は、お金があるとゲーム店に行き、1日中ゲームをして遊んでいたことなどを、ぼそぼそ話し始めました。そして 「退院したら、母親と姉に会いに行きたい」と何度も言いました。 退院の日も、彼は母親の所へ行きたいが、一度家に帰り荷物をとってからにしたいと言います。そのため、彼を家まで送って行きました。 彼の姿を見た父親はすぐに家から出て来て、戸口に立ちふさがりました。父親はすでに酔っています。 父親は、「Sさんは小さな時から近 所中から盗みをしたり、麻薬を使うので、近所中から嫌われている。 彼を家に住まわせたら、自分が追い出される」と言い、私たちを一歩も家の中に入れようとしません。話を聞いていた大家さんも出てきて、 Sさんを拒否します。結局、行き場 所がないSさんをバーンサバイに連れ戻りました。 そしてバーンサバイに来て数日後、頭痛と幅吐が始まり、再入院。 検査をしていましたが、急変して、亡くなりました。彼の死を父親に告げに行った時、すでに泥酔状態で話ができませんでした。実家の近くのお寺にいる兄にも知らせところ、兄は葬儀でお経をあげいと言うことなので、お願いしました。葬儀には叔父や叔母も参列しましたが、父親はとうとう来ませんでした。茶昆に付した後、親戚が遺骨を引き取ると言ってくれました。 彼は生前は皆に拒否されていましたが、亡くなってから、ようやく安住の地を見つけられたのかもしれません。 Sさんはわずか22歳という年齢で亡くなりました。彼の人生が実際にはどのようなものであったか、どのような思いを持って生きてきたのか、将来の夢が何だったのか、まったくわかりません。」 私たちは、人生最期のほんの短い時間を共有しただけです。しかしあの父親との生活は、どのようなものであったかは想像ができます。彼の心の奥底 には“満たされないもの”や”やりきさ”、”飢え"があると感じました。そのため、時折私たちを試すような言動をしました。Sさんとこれから関係を作っていこうという矢先に彼は亡くなりました。残念でたまりせん。
バーンサバイが開設してから6年が 過ぎ、7年目に入りました。古いバーン サバイ時代に入寮された方々は、元気になり、それぞれ自立して自分自身の道を歩んでいます。そして、新しいバーンサバイに入寮された方々は、今それぞれが闘いの真っ最中と言えます。退寮後パートを借り、仕事をしていましたが、また野宿生活に戻ったり、 シンナーで逮捕されたり、などなど。決してその道は平坦ではありません。生き方を変えるということは、一朝一タでは無理ですし、意思があってもさまざまな事情でむずかしい場合も少なくありません。ほんとうに少しずつ少しずつ、歩いて行くしかないようです。その人にとって一番生活しやすい形は何なのか、今までの生活歴や生き 方、置かれている状況をふまえ、時間をかけて考えていく必要があります。そしてどうしたら、心の中の叫びや思いを汲み取れるのか。どうしたら私たちの思いが伝わるのか。いつまでたってもこの仕事はむずかしく、迷いの中にあります。新たな問題が出てくるたびに、試行錯誤を繰り返していくしかありません。
(バーンサバイ;ディレクター)

感謝の想い ― ゲーサニン・ジャイスワン

みなさま、初めまして。私は、2007年 10月1日からバーンサバイで働き出しました。バーンサバイが料理担当スタッフを探している時に、早川文野さんの知人からバーンサバイを紹介してもらったのが縁です。今までバーンサバイのような所で働いたこともなく、直接面識のある人もいませんでした。ですので、初めて バーンサバイに来た日はとても緊張しましたし、どのように振舞えば良いのかもわかりませんでした。ですが、2-3ヶ月もすると、バーンサバイは、まるで大きな家族のようで、温かな雰囲気があることがわかりました。青木恵美子さんも早川文野さんも心優しい人で、スタッフも患者も関係なく、みんなの面倒をみてくれるので、親のような存在です。今では不安や緊張もなく、心安らぐ環境で仕事ができることに感謝しています。 家事全般を担当していますので、お 料理を作ったり、お掃除をしたりするのが、私の仕事です。勤務時間は朝8時 からタ方5時までで、家からバーンサバイまで30キロの距離を、オートバイで30分かけて通勤しています。どんなことも相談できる気の置けない新しい友人たちと、そして、遠くからいらっしゃってくださる支援者とのつながりに囲まれて、仕事をしています。エイズ患者と共に時を過ごしながら仕事をする。このことに、いつも責任を感じています。なぜなら、バーンサバイはエイズ患者一人ひとりに長い時間をかけて全身全霊で取り組んでいる 所で、タイで行われている多くのエイズ患者の支援の中でも大きな役割を担っているからです。 バーンサバイでは日本のみなさまから支援をもらい、そして日本人スタッフやボランティアが活躍しています。「エイズ患者が自分で健康管理をして、自分で仕事をして、差別されずに社会の中 で『普通』の生活を送ること」。これがバーンサバイの目標です。 サポートを受けているエイズ患者だけでなく、その様子を見ていていると、私も嬉しくなります。 家事担当ですが、それでもバーンサバイで仕事をしていますと、エイズ患者の支援についていつも考えさせられます。そして、 ここでの経験から、友人や家族にエイズについて説明することができる ようになりました。また、エイズという病気がもたらす負の作用を多く目にしてきました。エイズは予防が大切で、これは自分だけではなく、私の身の回りの人々も、守ることになります。  バーンサバイには、誰も頼れる人がおらず、さまざまな機会を失っている人々がやってきます。そして、このような人々へ、たくさんの愛情と思いやりを注ぎ、機会と経験を提供するところです。バーンサバイから支援を受けている患者は何人もいますが、「特別な人」はおらず、それぞれが同じように心のこもった支援を受けています。私は、バーンサバイの仕事を知るにつれて、やりがいを感じるようになりました。また、バー ンサバイにくる人々のように機会を失っている人たちが多くいることを 知り、社会にそのことを知ってもらいたいと思うようにもなりました。
最後に強い信念をもって、タイに暮す人々をこんなに良く支援してくださるバーンサバイと、そしてバーンサバイを支援してくださっているみなさまに、同じくタイに暮す者として、深く感謝の意を申し上げます。 (バーンサバイ;スタッフ) (翻訊;持田敬司)

豚やナマズと一緒に、私も育ててもらってます ― 持田敬司

36歳の男性、Bさんは疲身で、少し猫背です。端正な目鼻立ちで、目が悪いのでジッと脱むように見ますが、それだけではない眼光の鋭さがありました。ビル マ生まれのラフ族である彼は、耳が悪いこともあり、タイ語はほとんど話せず、北タイ語を少しとラフ語を話します。1年前に薬草を入れて一杯になった米袋を担いでバーンサバイにやって来ました。彼は身分証明証の関係で医療保障制度を 利用することができず、医療費が全額自己負担となり高額であるため、病院に通 うことができませんでした。この米袋に入った薬草が彼の命の綱だったのです。 入寮当初、BさんのCD4の値(免疫状態を表す指標の1つ;健康な成人で700°1500と言われる)は0でした。後日、彼の家を一緒に訪問したタイ人とドイツ人の看護師がこのことを知ると、オートバイを自分で運転している彼の様子を見ながら、「ええつ!CD4が0で生きてられるの!?生きてられても、バイクの運転なんてできるわけがない。そんなはずはない、絶対検査ミスだ!」と驚かれました。 CD4の値が0というのは、このような状態です。家族も村人も「Bさんは、『もうダメ だ』とみんなが諦めるぐらいに、死にかけたことが2回あった」と言います。しかし、 彼は妻と3人の子どもへの強い想いで生き抜いてきました。そして、綱渡りの命を 執念で繋げてきた彼の表情は、暗いもの でした。 Bさんの家族への想いは、さまざまな 場面で表れます。彼はバーンサバイに入寮してすぐ、1ヶ月ほど入退院を繰り返しました。入院中に何度も妻に電話をかけている彼の様子や、妻と子どもが見舞いに来た時に見せる、いくらか安心している表情、自分のベッドで6歳になる男の子を抱いて寝ている様子などです。 また、別の患者さんと郊外の病院に行くスタッフに「目的地から家までたったの 2kmだから、少しの間家にいて家族の顔 をみたい」と言い、Bさんも一緒に行くことがありました。彼の家を目指してもなかなか着かず、何度も「あとどれぐらい?」 と聞いても、毎回「あと2km」と言います。 結局、20kmほどかかりました。それからし ばらくの間、どこに行く時も「2kmだから」 とみんなで冗談を言っていました。その度にBさんは、ばつが悪そうに「エへへ ッ」と笑います。 彼はバーンサバイに来て、初めて薬 草ではなく、抗HIV薬を飲み始めました。他にもさまざまな薬も飲まなくてはならず、 1ケ月の薬代は1万バーツ(約3万2千円)以上かかりました。彼はとても働ける状態ではなく、一家は妻が日雇い労働で得る1日100バーツ(約320円)の賃金だけに頼って生活していました。当然、月に1万バーツもかかる医療費を払うことはできません。しばらくして抗HIV薬を無料で処方してもらえる医療保障の対象者が拡大し、彼はそれに入ることができました。 新しい医療保障制度でもカバーできない分は、バーンサバイが医療費を負担することで、健康面 については道筋ができました。しかし、彼は他にも収入と安定した身分証明証の課題が残っていました。もちろん、健康、収入、身分 証明証の3つは関係し合っています。例えば、安定した身分証明証があれば、就労の機会も増えますし、今よりもカバーの幅が広い医療保障を利用することができます(実際にはバーンサバイが彼の医療費をサポートしているため、 彼が受けているサービスに差はありません)。一方で、諸手続きにかかる費用や、役所などに何度も往復できるだけの体力が、安定した身分証明証を取得するために欠かせないこともあります。身分証明証については、それを専門に活動をしているNGOや身分証明証作成の窓口である村長などにコンタクトを取りましたが、共に「今の法律では、これ以上のことはできない。法律が変わるのを待つしかない」と言われてしまいました。
体調を崩すまで、彼は同じ地域の村人が行っているとうもろこしや豆を育てる農業で雇われて日当をもらっていました。また、自分たちで食べたり、売ったりするために豚や鶏を飼っていました。しかし、バーンサバイに来る前に、その豚は「医療費を払うため」に全部売らなくてはなりませんでした。Bさんが今後どんな仕事をしていきたいのか?
家の近くではどんな仕事がで きるのか?そんなことを聞き、調べるために、山岳民族の村のコミュニティ開発を行っていた山岳民族エイズ孤児施設のスタッフにお願いし、何度か一緒に彼の家を訪問しました。その中で、彼は「元気になったら、今までのように村で農業をやりたい」、「養豚をもう一度やりたい」と自分の希望をハッキリと言います。
体調のこともあるので、まずは家の軒 先で自分たちが食べるための野菜や香辛料を育てることからやってみることになりました。彼は「鶏を放し飼いにしているので、鶏に野菜を食べられてしまうのを防ぐためのシートや、野菜の種を買ってもらえないか?」と言い、非常に積極的です。私たちが訪問する他に、Bさんは通院のために1ケ月に数回、家からバーンサバイに泊まりに来ます。その度に「この前買ったナスの種はもう植えた?もう実はなった?」と聞くと、「植えたばかりだ がら、まだ食べられないよ」、「もう大きい実がなって、今家族みんなで食べてる」 と言います。このように聞かせてくれている時、Bさんの表情から少し暗さが消えます。 家庭菜園のような力作業も少しずつできるようになってきて、ちようど一緒に彼の家を訪問していた方が働いている NGOの施設で飼っていた豚に子豚が生まれ、譲ってくれるという話が持ち上がりました。彼と子豚をもらいに行った時、「好きな子豚を選んで、指差して。その豚を私たちが捕まえるから」と言われると、彼はすぐに自分のズボンの裾をめくり上げて、豚小屋の冊をまたいで自分で子豚を追いかけ回して捕まえました。この様子から本当に養豚をしたい彼の気持ちが伝わります。また、もらった2頭の子豚を車の荷台に乗せて、彼の家に向か っている間の婿しそうな表情や、山道の悪路に揺られて子豚が怪我をしていないかと心配そうに後の荷台に振り返る表情は、今までの彼には見られないものでした。 豚だけでは終わりません。先ほどのNGOスタッフとBさんの間の話し合いで、 ナマズも飼うことになりました。「あと2ケ 月ぐらいしたら夏になって、その時期が一番ナマズの成長が早いから、あと2ケ月ぐらいしたら始めよう。それまでに豚の世話をしながら、毎日少しずつ、池を掘るんだよ。一気に掘ったら疲れるし、そしたら体調を崩しちやうかもしれないから ね。」と説明をしていました。後日、彼の家を訪問した時、既に大きな池が掘られていたのでビックリして聞いてみると、「1 日で掘った」と言います。「大丈夫だった!?具合が悪くなったりしなかった?」と驚いて聞くと、「大丈夫、大丈夫!」と言い、ニカッと笑います。 この時は体調を崩したりしませんでしたが、それでもBさんのCD4の値は今でも41しかありませんので、時折風邪や腹痛で具合が悪くなってしまいます。いよいよナマズを飼い始める日も、食欲がありませんでした。そして、彼の家に向かう車中では、めずらしく車酔いでフラフラになってしまいました。しかし、家に着くと、私たちが「ちょっと休んでからにしよう」と言う隙さえなく、Bさんは麦わら帽子をかぶり、鍛を担いで池へ行ってしまいました。私たちも急いで追いかけていくと、手伝いに来てくれた村人にテキパキと指示 をして、自分も池作りの最後の仕上げをしているBさんの姿がありました。私たちはその急変ぶりにビックリして、思わず笑ってしまいました。 実は、バーンサバイを退寮することになった時に、Bさんから「月に100バーツでも200バーツでもいいから、生活費をもらえないか?」と言われたことがあります。その時、私は「バーンサバイは、医療費は出せるけど、生活費は出せないんだよ」と言いました。バーンサバイにとっても、そのお金を渡す方がはるかに「楽」ですが、彼が行う養豚やナマズの養殖をサポートすることにしました。「楽」 というのは、「養豚や魚の養殖の準備のために、何度も彼の家を訪問する必要がなくなる」ということだけではありません。
「きちんとご飯を食べられているのだろう か?」というような心配をしなくて済みます。お金を渡していれば、私も夜にはグッスリ寝られていたでしょう。自律/自立して生きていくことでしか得られないこと、 また誰もが本来はそうあるべきことは、彼の表情の変化をお伝えしたことで、みな さんにもわかって頂けると思います。出会ったばかりのどうにか命を繋ぎとめて生き抜いてきた刺々しく、深い闇のような顔が、彼の持つ希望と力が少しずつ 「形」になっていく中で、喜びに満ちてきました。 一方で、Bさんとの1年にわたるお付き合いの間に、バーンサバイでは6人の方が亡くなりました。亡くなっていく方たちと向き合うこと、そして、彼らが亡くなるということを受けとめることは非常に辛く、逃げ出したくなる時がたくさんあります。 亡くなった方が残していったものを大事にしたいという気持ちはありますが、自分が磨り減っていると感じることもあります。 そんな時、Bさんの生き生きとした笑顔と前向きのパワーにいつも励まされてきました。豚やナマズと一緒に、私もBさんに育ててもらっています。
(バーンサバイ;スタッフ)