バーンサバイニュースレター第9号


バーンサバイニュースレター第9号
 

献堂式によせて ―  合田 悟

献堂式、おめでとうございます。
バーンサバイが、2002年7月7日に チェンマイで開設されて以来、4年の月日が流れました。
5年前に、青木恵美子牧師がバーンサバイを立ち上げる決心をした時から、 日本自由メソヂスト教団は、青木恵美子牧師を支えてまいりました。教団は青木 師を巡回教師としてチェンマイに送り、 バーンサバイの活動を支援することを決定しました。そして、教団内に「バーンサ バイ支援委員会」を発足させました。以 来、4年間、教団および教会員がともに 支援を続けてきました。教団は年間20 口の会費を払い、また教団内各教会や 会員にも支援献金をよびかけ、支援を 続けております。 思えば最初の患者さんから重症で、その方はご自身の生命がそう長くはないと感じていたそうです。そしてバーンサバイで最期を迎えたいと希望しました。彼女の思いを大切にしたいと考え、バーンサバイと協力関係にあるCAMのサナン牧師が、何度か大家さんと話し合いましたが、受け入れられませんでした。結局、 その方を病院へ運び、彼女は1週間後に天に召されました。バーンサバイは入 られる方たちの1人1人の意思を尊重することをモットーにしていますので、その 時以来、新しい家の建設を目標に歩んできたそうです。そして、多くの方たちの ご支援により、今日の日 を迎えることができました。 バーンサバイのこの4年間の歩みは決して平坦な道ではなく、 困難の連続で あったと聞いています。 ただ何か問題がおきるたびに、さまざまな方々 がいろい ろな形で助けて下さったそうです。 そして、 (日本自由メソヂスト教団総会議長) 一番確かなことは、主がこのバーンサバ イを建てられ、苦痛、貧困、孤独など深 刻な問題を抱えながら闘病しておられる方々とともにいらっしゃるということです。 主がここの方たちを慰め、 癒しておられ ます。決して1人ではなく、 ともに生きて いるということを示しておられます。 5年目を迎えた今年、 バーンサバイはこの地サラビィで初心にかえり新しい一歩を歩み始めました。 タイに生まれ、 タイに住んでいる方たちにとって一番必要としていることは何かを考えながら、 今後の活動を進めていくことになります。そして、 バーンサバイに来られる方たちが自立し、 地域社会へ戻っていくことができますように、今後も活動を続けられることと思います。一歩一歩進まれますように、お祈りいたします。

マリ通信  バーンサバイ2006年6月〜10月入寮状況  ― 早川文野

新しいバーンサバイは土地が広いため、 入寮者やボランティアの方々が土地を耕し、無農薬野菜を作り始めました。とうも ろこし、きゆうり、かぼちゃなどを植えています。初収穫の日は、空忘来の炊め物に感動しました。いつかバーンサバイで使用する野菜をすべて、栽培できたら・・・という大きな夢を見ています。 ところで2006年6月〜10月の入寮者 數村、成人6名(女性4名、男性2名)、子ども1名でした。そして残念ですが、1名の方が亡くなりました。
Rさん(女性:42歳)
Rさんはタイヤイ族です。10年前夫と別れ、ビルマからタイへやって来ました。
ビルマでは仕事がないため、先にタイに来ていた妹を頼って来たのです。前夫との間に25歳の息 子がいますが、今どこにいるのかわかりません。タイに来た直後に、建設現場で働く東北地方出身の 男性と知り合い、結婚。すぐに娘 が生まれました。夫はよくお酒を飲み、カラオケに遊びに行くような人でした。 3年前、2番目の夫がエイズで 死亡しました。その時、Rさんも検 査をして、初めてHIVに感染して いることがわかりました。夫の死後、 働きながら娘を育てていましたが、 今年に入り体調が悪化してきました。3ヶ月前結核にかかり、結核センターで検査。現在結核の薬 を服用しています。これからさらに3ケ月間は結核の薬を飲み続けなければなりません。抗HIV薬を服用するのは、その後になります。また1年前に子宮ガンも発見されました。医師から子宮ガンの放射線治療をするように言われ、チェンマイに来ました。25回の放射線照射が必要で、月〜金、毎日通院しなければなりません。 入寮時は10歳になる娘さんもいつしよに来ました。母1人、娘1人の家庭ですから離れがたく、学校を休んでついて来 ました。ちょうどバーンサバイの支援者の方がいらして、2日間全員をレスト ランでの食事会に招待して下さい ました。娘さんは大喜びで、帰る日を1日延ばして、2日目も美味しい食事に大満足でした。きつとよい思い出になったことと思います。 入寮2週間ほどたった頃、彼女 が結核の薬を服用していることが わかり、他の入寮者が感染を恐れ、 Rさんと話さなくなりました。彼女を紹介してきたNGOに問い合わせたところ、結核の薬は飲んでいる が、排菌はしていないので大丈夫 であるため、入寮時に言わなかったと言います。バーンサバイでは、 入寮時に結核の有無を必ず聞きます。免疫力が弱っている方たちですから、結核は怖いのです。他 の入寮者には排菌をしていないことを説明しましたが、恐怖心が先に立つてなかなか受け入れられません。 Rさんは他の入寮者が話してくれなくなったことで、傷つきました。それで、病 院の近くに地方から出て来ている患者 や付き添い家族用のゲストハウスがあり、そこに移ると申し出ました。彼女が通院している病院は大きな大学病院で、北部 タイからたくさんの患者が治療のために 集まってきています。治療中に知り合った患者さんといつしよに部屋を借り、2人で家賃をシェアすることになったのです。 毎日通院する中で、友達の輪が広がっていくようです。Rさんには問題がおきたり、具合が悪くなったりしたら、 すぐに連格をするように、またいつでもバーンサ バイに帰ることができることを話しました。 バーンサバイからも彼女を時折訪問することを約束しました。 放射線治療が進むにつれ、白血球が減少し、 食欲も落ちてきました。しかし医師は、血液検査をしながら治療を続けると言います。彼女は訪問するたびに、 「闘病はたいへんけれど、娘のためにがんばる 」と話していました。そして、放射線治療の副作用を何とか乗り越えました。 Rさんはエイズ、結核、子宮ガン、まさに三つの病気と闘わざるをえません。1つの病気でも大変だと思いますが、彼女は娘のために元気になりたいという一心で、治療を終え、娘さんのもとへ帰り ました。これからも、いろいろたいへんなことがおきると思いますが、親子で手を 携えて乗り越えていってほしいと思いま す。 バーンサバイに入寮している方たちのほとんどは、今は治っていますが、以前結核にかかったことがあります。自ら経験者ゆえ、結核に対して注意深くなるでしようし、また予防して当然です。しかし今回のように感染することがない場合で、極度に反応し、 仲間はずれにするのはどうでしょうか。 私たちは、つらい思い出をひきずる必要はありません。 ただ自分の身体や精神状態がもっとたいへんだった時に、 どうしたか、何を思っていたかなど、 少しは覚えておくことは必要な気がします。 また今回のことを通じて、適切な情報や知識を提供することの大切さも感じましたし、 排除するのではなく皆がともに支えあうために、今後どうしたらいいのかという課題も提示されたと考えて います。 人が多くなるとそれだけ問題も増えるでしょう。他にもさまざまな課題をかかえながら、1つ1つ受けとめて、活動を進めていくしかありません。 サラピイに移転し、4ヶ月がたちました。 建設当時反対運動がありましたので、 心配していましたが、皆さん快く受け入れて下さいました。これからも互いに交流し、 良い絆を作っていきたいものです。そしてこの新しい地で、エイズの方たちととも に日々を紡ぎ、生命を紡ぎ、緑の屋根の下で暮らしていこうと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
(バーンサバイ;ディレクター)

生き抜く力を間近に見ること  ― 貝瀨亮子

6月、私が見習いボランティアとしてチエンマイに着いた数日後、一人の患者さ ん(Nさん)が村内の知人と息子さんに連れられて、バーンサバイにやって来まし た。絶えず重い唆をして痛みのためか非 常に険しい表情をしていました。エイズ だとのこと、元気になって仕事が出来る ようになるまで2ー3ヶ月入寮したいと、 教会関係の人より紹介を受けてバーン サバイを訪ねて来ました。唆の具合から 結核の疑いもあったため即入寮にはなら ず、病院へ行き検査し、そのまま入院することになりました。私も初めてのことで 何もわからないままながら病院に同行させてもらいました。これが私の最初のNさんとの出会いでした。
Nさんはラフ族で、最初はあまりタイ語を話しませんでした。同行して来た息 子さんを通して話を聞きます。重い唆は 2ヶ月くらい続いていて、下卿と腹痛・頭 痛もひどく、身体に力が入らないとのこと でした。抜け毛も多く、1ヶ月前くらいから は舌のカビも気になるようになっていた そうです。結核ではなかったものの、エイズでカリニ肺炎になっているという診断を 受けました。
入院後は下病・唆の薬をもらい点満を受け徐々に回復し、3日後には臓臓とした感じがなくなり、意識がはつきりとして 来たら段々とタイ語も出てくるようになり、自分のことも少しずつ話すようになりました。また、話すようになるにつれ「ご飯を食べるお金がないからお金が欲しい」、 「交通費がないからお金が欲しい」、「めがねが欲しい」とお金に対する執着の強い言葉も出てくるようになりました。 Nさんの村はチェンマイ市内から3ー 4時間行ったところにあります。夫は数年 前に亡くなっていて、24歳の息子さんと二人暮らし。主に2ライ(1ライ=1600m) の土地でキャベツやトマトを作ったり、作物の袋詰めの日雇い仕事をしたりして生 計を立てているそうです。今年はNさん の具合が悪かったので、まだ作付けをしておらず収入がないとのこと。地元の病 院で30バーツの診療を受けることのできる制度に登録していましたが、何の病気かわからないと言われ、通院はしておらず抗HIV薬も飲んでいませんでした。感 染の経緯に関してはよくわからないけれども夫から移ったのではないかと思うとの ことでした。 NさんのCD4は50、バーンサバイに 来る患者さんの中では比較的よい方です。体力もチェンマイでの入院生活でだいぶ回復し、息子さんも一緒に住んで生 活をすることが出来ることもあり、Nさんは バーンサバイへ入寮せずに自宅に戻り、 地元の病院で抗HIV薬をもらい治療を 続け、いつでも困ったことがあったらバーンサバイに連絡をしてもらうという方向 に決まりました。抗HIV薬は飲み 始めると継続して毎日同じ時間に 飲まなくてはならず、副作用もあり ます。息子さんも同席して抗HIV 薬や30バーツ診療制度の説明を ラフ語で受け、Nさんは抗HIV薬 を飲み始めました。息子さんは仕 事があるからと先に村へ帰り、薬 の副作用が落ち着くまで数日様 子を見てから、Nさんが村に帰る 際に私も一緒に行かせてもらうことになりました。
実際に村に着いて近所の人から話を聞いてみると、Nさんから 聞いていたのとは違う話も出てき ました。夫も息子も一人だけだったと聞 いていたのですが、先夫との死別後に 再婚して離婚し、その男性は別の県に いて行き来がない、子供もチェンマイに 来た息子さんの他に何人かいるとの話も 聞きました。Nさんは病院に行っても何 の病気かわからなかったと言っていましたが、村ではエイズだということですでに
認識をされていました。一緒に生活すると感染するから隔離することを村の保健 所の職員が勧めたと村の人たちは言い、 実際に一緒に住んでいるはずの息子さんも別の家に住んでいました。これまで に村内で何人かNさんと同様の症状に なった人はいるそうですが、診察を受ける前に亡くなっており「あれがエイ ズではないか」と言うものの、はつ きりとした情報が入ってこない分だけ余計にエイズに対する怖れがあるようです。この村では村外から来て住む人はほとんどなく、婚姻もたいていは村内の人同士で行って おり、村中が親戚のようなもので、エイズだと認識されている現在でも、Nさんの家には近所の人との 行き来があります。しかし親戚同様 であるとはいえ、エイズは怖いしどう対処していいかわからない状況 だったのかもしれません。村の人々のNさんに対する微妙な距離感を短い滞在でしたが感じました。 バーンサバイを訪ねてきたのも、一緒に生活して感染するのが怖いから、村の人がNさんをチェンマイに送ろうとしていた のではないかとも考えられます。Nさん 本人自身も、チェンマイでしばらくは収入の心配をせずに暮らす方がいいと考 えてやって来たのかもしれません。Nさ んと話していて、お金に対する執着・生きることに対する執着が非常に強く、生きることにしたたかな人だという印象を受けリを動かしたりしながらその時々を生きてていたことでそう感じたのかもしれません。
結局、いろいろな人からいろいろな 話を聞いてもはっきりとしたことはわかり ませんでした。しかしながら、村に着いてからも「薬はいつ飲めばいいのか」「薬は どこでもらえるか」とNさんから治療に関 する質問が続き、どうやっても生き抜くことに貧欲である姿勢だけは強く感じることが出来ました。
この最初の出会いから今に至るまでの数ヶ月、バーンサバイで患者さんと出 会い、一緒に病院に行ったり生活したりすることで、うれしく思うことも戸惑うこともたくさんありました。共感すること、理解できないこと、もらい泣きをすること、どう していいかわからなくなること、いろいろ な感情が出てきますが、それはそのまま 患者さんの持つ背景の複雑さや個性の 多様さにも因っているのではないかと思 います。それを一括りにして簡単に答え を出すことはできません。それぞれの状況や感情とじっくり向かい合ってひとつ ひとつ理解していくことが必要なのだろう と改めて感じます。ただ共通しているの は、Nさんも他の患者さんも、エイズとつきあいながらも生きることに貧欲だということです。思い切り怒ったり、思い切り笑ったり、利用できる物を利用したり、身体を動かしたりしながらその時々を生きています。その姿を間近に見て、その生きる力に圧倒されることもしばしばで、今は むしろ私の方が患者さんに支えてもらっているのだなと実感します。Nさんのケースでは、言葉が通じるだけではなく、 信頼されたうえで本当のことを話してもらうことの難しさを実感しました。これからも たくさんの患者さんに出会っていくことに なると思いますが、どこまで信頼関係を 築いて心を開いて向かい合って行ける のか、ひとつひとつのことを理解していけ るのかが、この仕事を始めたばかりの私 にとつて大きな課題になるのではと感じ ています。いろいろな試行錯誤を繰り返 しながら、いつか患者さんがつらいと感じた時に、そっとそばにいて少しでも気 持ちを共有して支えとなれるそんな存在になれるよう日々を積み重ねていけたらいいな、と思っています。
(バーンサバイ:スタッフ)

バーンサバイの家事担当スタッフとして ― プラニー・プーイ

私はプラニー・プーイと申します。8月からバーンサバイで家事担当スタッフとして働いています。 私はすでに結婚していますが、まだ子供はいません。夫との二人暮らしです。 夫はアメリカ領事館のガードマンをしています。私は仕事を終えると、毎日チェンマイ市内の聖書学校でナータン・コーンマイ牧師のもとで聖書を勉強しています。
私がバーンサバイで家事担当スタッフとして働くようになったのは、マッケンリハビリテーションセンターの浅井重郎先生の紹介を通じてでした。バーンサバイが家事担当スタッフを探すにあたり、浅井先生にお願いしたことがきっかけになっています。そのようなきっかけでバーンサバイに来た私ですが、少し私のことを知ってもらうために普段の私が感じることを書いてみます。 -
・私が驚く時:無心で仕事をしていた り、一人で考え事をしている時に静かに 気がつかないうちに後ろに人が立っていたり、何かを落とした音がしたりする時は びっくりします。
・私が嬉しく思う時:何かを望んだ時、それが常に叶うと嬉しいです。ほめ言葉
を受けたり、自分の好きな物が手に入ったり、したいと思ったことが現実になると嬉しいです。
・私が悲しく思う時:何か悪いことや きついことを言ってしまったり、よくない態度をしてしまったり、よくないことを考えて しまったことに後で気がついた時などは悲しく残念に感じます。また、人が自分を不満にさせることをした時もすごく残念に感じます。 ・怒りを感じる時:人が自分の不満に思うこと、例えば悪いことを言ったり、態 度が悪かったり、間違ったことをしたりする時には、腹が立ちます。また、人が弱い者を利用するのも許せません。 こんな私のバーンサバイでの仕事とは、家の中と周辺の掃除や衛生管理、 料理などを作ることです。免疫力のない人たちが住んでいますから、特に衛生面 に関しては注意をしています。私はいつ もスタッフとして最善を尽くすように心がけています。これからも衛生管理や手入れがよりよくできるように、能率的なやり方を工夫していきたいです。 見せかけでない内側からあふれる愛を私たちに注ぎ、いつもともにいて下さるイエスさまのお導きによって、私はこのバーンサバイへやってきました。これからもできる限りの努力をして、バーンサバイをいつも笑いのあふれる明るい場所にしていきたいと思います。
(バーンサバイ;スタッフ) (翻訊:貝瀨亮子)

「バーンサバイに帰りたい」 ―  持田敬司

30歳の男性、ゲオさんは、ストリートチルドレンを支援しているNGO「アーサー・バッタナー財団」のスタッフに連れられてバーンサバイへ来ました。彼はプーケットで生まれ、13歳の時に家を出て以来、タイ国内を転々としていました。国民証がなく、建築・溶接・塗装業などで働いていましたが、仕事がない時は売春もしました。そして、お金が入ればお酒を飲むという生活をしていました。5年ほど前に体調を崩し、HIVに感染していることがわかってからも、気分を紛らわせるためによくお酒を飲んでいたそうです。体が弱くなり働けなくなってからはストリートで生活するようになり、アーサー・パッタナー財団を訪れるようになりました。バーンサバイに2泊した後、唆が止まらないことや食事を摂ることができないためにチェンマイ市内の病院に入院しました。ゲオさんがバーンサバイに宿泊していた間、私はちょうど外出中だったため入院先で彼とは初めて会いました。
ガリガリに獲せ細った手足をして、眠っている間も肺に水が溜まっているため唆が止まらず、高熱もあり、精一杯声を捧り出すようにして話すゲオさんと初めて会った時、私は正直「この人はこんな重症な状態から回復して、バーンサバイで働いている患者さんたちのように元気になれるのだろうか?」と思ってしまいました。私がバーンサバイで働き始めてまだ日が浅いため、体調が良くなりバーンサバイの自立支援事業で働いている人や定期診断の際にバーンサバイを利用する「元気」な患者さんばかりと接していたためかもしれません。朝からお昼までプラユーン牧師がゲオさんに付き添い、お昼からタ方までは私が付き添っていましたが 私にはゲオさんが元気になっていくステップが想像できないままでした。ゲオさんにも、私の心にも変化が表れるようになったのは、彼が入院して3-4日経ってからです。唆が治まってきて、「夜も眠れるようになった」とはっきり話せるようになってきました。熱も出なくなり、トイレへ行く足取りにも力が入っていました。 ゲオさんが本当に少しずつ元気になっていくのを感じられる度に、私にも喜びと希望がこみあげてきます。 8月29日、この日もお昼からゲオさんに付き添いました。顔を見 ると、すぐに調子があまり良くない ことがわかりました。治まってきた 唆がまたひどくなり、昨夜あまり眠れなかったためにウトウトしている時間が多く、トイレへ歩いていくのも辛そうにしています。タ食をほんの数口だけで食べ終えた後、「今夜は1人で大丈夫? 1人でトイレを済ませられる?」と聞くと、彼は「大丈夫だよ」と言います。その後に「いつも1人だから・・」と普段は言わないことを言います。私がどうしたら良いのか迷っているところに医者が問診にやってきたので、「今日は唆がまた出てきたし、 調子が悪いように思うのですが、どうですか?」と聞くと、医者は「なんでもない。唆止めの薬を出しておく」と言うので、もう一度ゲオさ んに「今夜、1人で大丈夫?」と尋ね、「大丈夫」という返事を聞き、私はバーンサバイへ帰ってしまいました。その日の夜遅く、ゲオさんが入院している病院からバーンサバイへ電話があり夜10
時に亡くなったことを聞きました。 留守番をボランティアの2人に頼み、スタッフ4人ですぐ病院へ向かいました。 まだ暖かいまま寝ているゲオさんの足元 には血が広がっていました。どこを調べても外傷がないため、略血したのではないかと思います。苦しみながら1人で息を引き取ったことを想 うと、タ方にいつもと様子が違うことを感じ、「いつも1人だから」と言われたにも関わらず、自分の身を守るために帰ってきてしまったことをひどく後悔します。 ゲオさんが何度も入院中に言つた「バーンサバイに帰りたい」という言葉。小さな声とは対照的に、長いまつ毛の下の大きな目からは強い意思と願いが伝わりました。私たちはその度に「食事ができるようになって、点満が取れてからね。そうじやないと、バーンサバイに戻って も、もつと具合が悪くなるから」と彼に言っていました。それで、ゲオさんは病院食や、どうしても病院食が食べられない時には私たちが買ってきたパンやフルーツを頑張って食べようとしていました。時には「食べられるようになったらバーンサバイ に帰れる」と思うあまりに無理をし過ぎて、 吐いてしまうこともありました。これほどまでにゲオさんが願っていた「バーンサバイに帰る」ことは、叶わなかったのです。 翌日、アーサー・パッタナー財団のスタッフがゲオさんの死亡届けや火葬許可書の申請を進めている間に、ゲオさんの友人たちが「彼の本名が違う」、「彼の国民証を見たことがある」と言い出しました。 役所へ問い合わせたところ彼が最後に使っていた名前の人間は既に亡くなつていることがわかりました。タイでは亡くなった人などの国民証の売買が密かに行われています。近隣国からの移民や、 長くタイ国内で暮らしているが山岳民族のために国民証を持てない人など、国民証を欲しがっている人は多くいるからです。これを防ぐために、タイ政府は全国民のデータベースを作って管理しています。役所では昔に亡くなっているはずの人間の死亡届けや火葬許可書を扱ってくれませんでした。そこで以前に彼が通ったことがある結核センターに問い合わせました。そこでは、彼は別の名前を使っていましたが、今度はその名前がデータベースには存在しないということで、役所では手続きができません。結局、バーンサバイを現住所として、 アーサー・パッ タナー財団が「彼は10年以上チェンマイいるが身分証明書をなにも持っていな い」ことを証明して、本名不明で手続きをすることになってしまいました。 アーサー・パッタナー財団では、「彼はプーケットで生まれたのではなく、近隣国で生まれタイに移ってきたのではないか?」、「犯罪に関わっていたために/お金に困ったために、国民証を売ったのではないか?」といろいろと推測しました が、結局彼の生い立ちを含め真実はわからないままです。葬儀に参加したバー ンサバイとアーサー・パッタナー財団のスタッフやボランティアと彼の友人たちの記憶、わずかな衣服とドライバーなどの商売道具というような遺品しか彼が存在 していたことを証すものはありません。
大切な瞬間は過ぎた後で初めて気づくことがあります。私たちはその瞬間のために働いていると言っても過言ではありません。バーンサバイではその瞬間を嗅ぎわけ、心と体をいつでも機敏に動かせるようにしなくてはなりません。私の胸の中には「バーンサバイに帰りたい」と何度も言っていた彼に1人で息を引き取らせてしまった後悔と、2度と同じ過ちを犯さないという決意と一緒にいつまでも彼が残っています。
(バーンサバイ;スタッフ)