バーンサバイニュースレター第8号


バーンサバイニュースレター第8号
 

今のバーンサバイに至るまでには・・・!     サナン・ウッティ

バーンサバイは2002年の開設以来活 動を続けてきましたが、年月を重ねる間 に、現在の場所ではさまざまな点で限界 があり、2年前に移転することを決定しま した。それ以後バーンサバイの運営委員 会では、活動地域における各層のリーダ ーと連絡を取り合い、バーンサバイの施設を建設するのに最適な場所を探してきました。病院に近いこと、市場が近いこと、 交通の便が良いこと、この3つの条件が大切であるとのアドバイスを受け、探し続 けましたが、なかなか適当な土地が見つ かりませんでした。最終的に、サラピー 郡内のHIV感染者の方から、カオセー ン市場の向かいにある “スカーピバーン・ヤーン ヌーン53小路”に面した 土地を購入してはどうか との紹介を受けました。その土地はチェンマイ県 とランプーン県をつなぐ旧街道に接しており、交通の便が良い場所です。土地の購入を決める前には、運営委員が現地に足を運び、バーンサバイの施設が本当に建設できるのかどうかを確かめるために、コミュニアイ|の長老と話し合いました。また、近隣の住民にも意見を聞きました。 このような経緯で土地を購入したのですが、いざ建設に取りかかる段階になって、建設業者からヤーンヌーン町役所衛生課に許可をもらうようにと言われました。 しかし、ちょうど同じ頃、ある住民がチェンマイ市長とヤーンヌーン町議会の議長に陳情書を提出したのです。また地元新聞の“タイ・ニュース"の地域の問題を取り上げるコラム欄に建設反対の投書が掲載されました。 反対の理由は、バーンサバイがコミュニティに問題を引き起こし、HIVの感染が広がることを恐れ、また周辺の灌漑用水路が影響を受けるというものです。またエイズの施設があればハンセン氏病のケースと同じように、将来的に土地の価格が下がり、周辺の土地が売れなくなってしまうとも言われました。
バーンサバイのスタッフと運営委員は、公的機関、NGO、コミュニティの長老、感染者など、さまざまな関係者らとの間で協議を行いました。その中で、住民の理解と協力を得るためには、建設予定地の近隣に暮らす住民に呼びかけて会議を開催してはどうかとの意見が出ました。それは、バーンサバイが住民や周辺のコミュニティに対して理解を得るためにキャンペーンを実施し、住民公聴会を開くべきだというものでした。そこでバーンサバイでは、コミュニティの長老や感染者ネットワークのメンバーと戸別訪問を行い、バーンサバイの活動を説明する文書を配り、1人1人と話し合いました。 そしてバーンサバイ建設の承認を決議するための会議を開催しました。 その場で、周辺の住民は、1人を除いて全員、賛成してくれました。その後、ヤンヌーン町議会でも会議が開かれ、運営委員会の代表である私が説明のために呼ばれました。そして会議の場で質問に答えました。 その結果、最終的には市長が建設許可の署名をしました。 やっとの思いで、今日に至ることができましたが、ここまでたどり着くには様々な障害や問題がありました。しかし一方では、今回コミュニティ内のすべての住民にバーンサバイを知ってもらうことができ、またエイズという病気に対してさらに理解を深めてもらう良い機会になりました。この経験を通して、将来にわたつ ても、関係者の方々から多大なる協力が得られるものと確信しています。
(バーンサバイ運営委員長)

マリ通信 バーンサバイ2006年度上半期入寮状況 ― 早川文野

バーンサバイの庭に、バトミントンのコートが作られました。涼しい朝 とタ方、楽しそうな歓声が響き渡り ます。皆で健康維持と美しいプロ ポーションをめざして、気持ちの良い汗を流しています。バーンサバ イに入寮した当時には、起き上が るのも、歩くのもたいへんだった 方々が、ラケットを力いっばいふっている姿を見ると、とてもうれしくな ります。
さて2006年度上半期の入寮者 数は8名で、全員女性です。年齢 は30代後半の方が多かったです。 また残念なことですが、2名の方が亡くなられました。1名の方は40歳 前半の女性で、おとなしいひっそりとした女性でした。バーンサバイが 3年前からサポートしていた方です。 彼女は最期までエイズという病気 を受容できませんでした。それでも 初めて会った時に比べると、少しずつですが、否定的な感情は薄れていったように思われます。そして彼女のお誕生日には、必ず訪ねてくれました。「肝臓が悪くなったので、入院することになった。退院したらバーンサバイに行きたい」との連絡があり、入寮をOKしました。 ところが肝臓癌にかかっており、もう末期でした。お見舞いに行った時には、腹水がたまり、治療ができない状態でした。結局退院はできず、バーンサバイに来ることもできませんでした。今年の彼女の誕生日にはもう会うことができません。 ほんとうに悲しいことです。
Aさん(女性:37歳) 2004年12月に日本から帰国し たAさんは、今年の1月、1年以上 にわたるバーンサバイでの生活を 終え、家族のもとに戻りました。サ イトメガロウイルス網膜症になり、 右目の一部分はすでに見えなく なっており、残る左目を守るため、急遽日本から帰国しました。当初は1週間に1度通院をしていましたが、3ケ月に 度の検診でよくなったために帰郷しました。彼女は抗HIV薬の効果が出て、左目の失明をまぬがれました。そして、CD 中の値も304になりました。 昨秋、日本に残してきた恋人もAさん と同じ病気で亡くなり、そのこともあり、Aさんは故郷に帰る決心をしました。タイに 戻ることなく異国で亡くなった彼の胸中 は、どのようなものだったでしょうか。時折、 彼から具合が悪いと言う電話が入り、Aさんも私たちも帰国を勧めていましたが、 彼はお金を貯めたいという気持ちがあり、 ずっと日本に残っていました。具合が悪いのを我慢しながら、仕事を続けていた のです。もしもう少し早く帰って来ていた ならば、元気になったかもしれません。 ほんとうに残念です。 タイの旧正月ソンクラーンの後、Aさんは目の定期検査のため久しぶりにバーンサバイへ戻って来ました。以前は70kg以上あった体重が58kgになっていました。妹さんたちが子どもを残して、バンコクに出稼ぎに行っているため、6人の甥や姪の世話をし、土曜日と日曜日は 市場でタイのソーセージを売っているそうです。現在石油の高騰で物価が上がっていますので、材料費にかなりかかり、 少ししか利益はありませんが、体調と相談しながら少しずつ売り上げを伸ばしていきたいと言っています。 彼女には、18歳の娘さんがいます。Aさんが日本へ行った時には、 まだ幼かったので、まったく母親の思い出がありま せん。Aさんの母親と妹さんたちが、残された娘さんを育てました。そして15年の 歳月を経て、再会しました。会った時は2 人とも喜びでいっばいでした。長年の願 いがかなった訳です。娘さんには、ずっと抱き続けていた彼女なりの母親に対するイメージがありました。しかし実際に会 い、ともに生活をしているうちに、思い描| いていた母親像とは異なっていると感じ 始めました。2人の間には、長い空白が あります。再会するまで2人の共有する 歴史をまったく持っていません。そのためAさんも娘さんも、互いに親子という感 情が持てないのです。親子ではなく、知 人か友人のようだと言います。Aさんの 心の中には、娘さんを育てなかったという遠慮があり、娘さんの方にも、Aさんに 対して複雑な感情があります。今後、2 人は生活をともにしながら、新たに親子 の絆を作っていかなくてはなりません。そ の道程は決して平坦ではないと思いま すが、いつか2人が心から親子であると いう感情を持ち、かけがえのない存在に なるように、祈らざるをえません。そして、 私たちもAさん親子を側面からサポート していきたいと考えています。このような ケースは、Aさん親子に限らず、多々見られます。出稼ぎは働きに行った本人だけではなく、その家族にまで深刻な影響 をもたらします。時には家族崩壊にまでいたる場合があります。家族の生活のた めに家を離れ働きに行き、その結果家族の中に問題が生じるのは、何とも皮肉なことです。
Tさん(女性:38歳)
Tさんはバーンサバイに初めて来た時には、階段を上ることもたいへんな状態 でした。今はゆっくりですが、以前よりも 登り降りが楽になったようです。 現在健康な時に購入した家のローンを支払っていますが、病気になり働けなくなったため、息子さんの友人に1部屋 を貸すことになりました。そしてTさんは 長女、母親や兄一家が住む田舎に移りました。 しかし、家に残り友人と同居していた 息子さんが、仕事には行かず、お酒ばかり飲む生活になりました。水道料金や電 気代も未納で、とうとう供給がストップされてしまいました。そこで、Tさんは銀行と話し合い、家を銀行に渡すことにしました。 今住んでいる家は山の中にあり、チェンマイに来るためには3時間かかります。 山からバイクでおり、その後バスに乗り換 えなければなりません。まだ体力のないTさんにとって、通院は困難です。とくにこれからの雨季は、よりむずかしくなります。そのため、雨季の間バーンサバイに入寮して、通院することを決心しました。 感染者や患者の方たちは、場合によ っては治療のために数時間かけてチェンマイにやって来る人たちも多いです。 自動車を持っている人は少ないですか ら、バスやバイクを乗り継ぐことになります。体力的に弱っていたり、症状が重い時には、通院さえ過酷なものになります。 チェンマイの周辺部にはたくさんの感染者や患者が住んでいますが、交通手段の確保は、むずかしい問題と言えます。 どうしたら、体に対する負担を軽減しながら、通院するか、解決策を模索する必 要があります。
バーンサバイの活動も、今年で5年目 を迎えます。これまでの4年間は、奇跡 の連続でした。入寮者を直接にケアするのはここにいる私たちですが、たくさんの方々にさまざまな形で支えていただきました。このバーンサバイは、それらのお1 人お1人とともに作り上げてきたもので す。 そして、5年目の今年、新しい場所サ ラビイへ移転します。そして新しい一歩 を踏み出します。新しくなってもバーンサ バイを立ち上げた時の思いを忘れずに、 歩いていきます。入寮者の定員が3名か ら6名になります。また男性と女性を、同時に受け入れることもできます。サラビィは、感染者や患者の多い地域ですから、今後は地域に住むその方たちの家を積 極的に訪問することも考えています。そ して、できるだけコミュニテイと密接に交 流し、活動を展開していきたいと願っています。そのことによってエイズに対する壁を、 少しでもとりはらいたいものです。 今後ともバーンサバイを見守っていただければ幸いです。
(バーンサバイ:ディレクター)

「天国で待っていてね。アミー」  ― 青木惠美子

今年の1月初めにストリートチルドレンのケアをしているNGO「アーサー・パッタナー財団」から依頼があり、山岳民族アカ族の女性アミーがバーシサバイに入る 事になりました。結核だといいます。その 上バーンサバイにやって来た時、高熱がありました。排菌も心配で、そのまま、近くの病院に入院しました。いつもなら大部屋ですが、病院でも排菌の心配があつたのでしよう。2人部屋をアミーが独占することになりました。
アミーには女の子と男の子の二人の子どもがいます。二人の父親は違います。 アミーはタイとビルマの国境の町メーサイでビルマと行き来しながら生きてきました。元気な時はバナナの葉を売ったり、 子どもと一緒に物乞いをして暮らしを立てていました。しかし、麻薬に手を出すよ うになり、子どもたちだけに物乞いさせるようになります。そして新しい恋人をつく って、子どもたちの養育を放棄してしまいまいました。そのため長女は傷つきトラ ウマを抱えてしまいます。アミーはその恋人からHIVに感染し、彼はエイズを発症し亡くなりました。そして彼女はまた子どもたちの方へ気持ちが戻りました。すでに子どもたちはNGO が世話していましたが、アミーはエイズを発病していました。 具合が悪いとNG0に助けを求め、良くなると麻薬が恋しくなり、また出て行ってしまいます。そして、さまざまな病気を併発し生死をさまよったことが何度もあると言います。彼女はタイ語がほとんどでき ません。そのために土日は長女が、平日 は下の男の子が通訳に付いてくれることになりました。上の子が13歳、下の子が 12歳です。アミーは麻薬をやっていたせいでしょうか? 理解能力が大変低いです。大声で喚くこともしばしばありました。上の子がついてくれている時には下の 子の名前を呼び、下の子が居る時には 上の子を大声で呼びます。本音は二人が一緒に居てほしいのでしょうが、子どもたちはその度に傷が付きます。いくら注意してもやめません。二人ともとっても良い子でわたしをかいがいしく助けてくれます。下病がひどくて何回もパンパースを取り替えるのですが、ふたりともそのやり方をしっかり学習して、手伝ってくれます。アミーは便が出たと訴えることはしませんが、本人も気持ちが悪いのでしょう。パンパースの中に手を突っ込みます。つめの間に入った便をブラシで洗うのですが、これを本人が嫌がって、大変でした。長女はそんな母を叱り飛ばします。アカ語で意味はわかりませんが、相当きついことを言っているようです。そうするとまた下の子の名前を呼び始めます。 その後体力が回復し、退院できることになりますが、まだ排菌の心配があり、バーンサバイにつれて帰る わけには行きません。エイズ孤児の施設アガペーには個室があるので、 費用と病院の行き帰りはバーンサバイが責任を持つ約束で受け入れて いただきました。私は3月半ばから帰国することになり、その前にアガペーまで彼女を見舞いました。会った途端にアミーは泣き出しました。アガペーでは良い介護をしてくださっています。担当の方 もポリシーのある方です。アミーも見たところはとても良くなっているように見えました。これだったら、バーンサバイに帰って来る日も遠くはないかと思い安心しました。しかし、一方彼女が泣いたのが気 になって仕方ありません。二人の子はまだアガペーには見舞いに来ていないといいます。翌日私は二人の子 に会いに行きました。ふたりとも大変元気でした。お母さんが会いたがっているよと伝えると下の子はすぐにも会いに行きたそうでした。お姉ちゃんの方は複雑な顔をしましたが、学校の試験が終わったら見舞いに行くと約束してくれました。 その後私は帰国しました。4月12日早川さんから電話が入り、アミーが亡くなったと知らされました。わたしはショックでした。今、思えばあの涙は別れの涙だったのだと思い当たります。二人の子が最後の2週間、アミーと共に過ごし、お母さんとしっかり和解ができたといいま す。うれし涙があふれました。アミ ー!側に居られなくてごめんね。天 国で待っていてね!
今年の2月にスタディーツアーの 方々に付いてメーサイにあるストリートチ ルドレンのNGOドロップセンターを訪ねました。私はストリートチルドレンというのは親のない子が多いと思っていましたが、 実際には親から子どもを守るためにケアをしている子が多いそうです。アミーの子どもたちのように物乞いを強要されていたり、父親から暴力を受ける子が後を絶たないそうです。父親は酒と麻薬に明け 暮れています。そんな親から子どもを守り、またそんな親の影響で同じ道を踏まないようにケアをしているそうです。ビルマではあまりにも安い値で麻薬が手に入 ります。話を聞きながらアミーの子たちのことを思い身につまされました。これから二人が幸せを掴んでくれることを祈るのみです。 巻頭言でサナン牧師が書いてくださいましたが、バーンサバイの新しい家が立ち上がるまでに、いろいろ問題があり ました。わたしはチェンマイでバーンサバイを早川さんと立ち上げて以来、次々 と大きな問題に出くわしてきました。その 度に、自分に何の力もないことを思い知 らされてきました。知恵も体力もお金もありません。問題が起こる度に、神さまに一切を委ねる以外に道はありませんでした。
お陰で自分を空つぼにして神に委ねることを身体が覚えました。この度、バーンサバイの新しい家建設の反対が起こったと聞いたときも、正直神さまのお手並み拝 見と心配はしませんでした。実際には現 地のエイズ問題に関わっておられる方々 が力を合わせて問題に対処してくださったのですが、わたしは今、最初に反対を なすった方に感謝でいつばいです。そ の方が反対なさったお陰で、彼を除く村 全体の方々がバーンサバイを理解し、受け入れてくださったのです。これは奇跡としか言いようがありません。決してバー ンサバイの力だけではできることではありませんでした。わたしはタイに対して、いろいろ問題も感じていますが、今回のことを通してタイ人の懐の深さに感激いた しました。
(バーンサバイ;スタッフ)

談話が流れる待合所(新スタッフ紹介に代えて) ー  持田敬司

Sさんに付き添って、初めて病院へ行った。病院の入り口はドアがない開けつ放しの作りになっており、靴も脱がない。 外からの風が気持ちの良い程度にホールまで流れる開放的な作りになっている。野球場にあるような青色のプラスティック 椅子が並ぶ待合所では、談話が途切れることがなかった。 今日は、月に1度この病院にHIV感 染者やAIDS患者が定期健診を受け、薬 をもらう日である。またHIV感染者/AIDS 患者の当事者グループ(患者会)の会合 が開かれる。ドアもカーテンもつけていな い待合室から丸見えの定期健診用の小さな診察室に直接診察券を出して、総合待合所で順番が来るのをSさんと一緒に待っていた。バーンサバイでは会計の引き継ぎを受けているために、患者と病院へ行くのは初めてだった。私は緊張して いたが、周りではすぐ談話が始まる。 「その人(私のことを指して)は誰?」と 待合所にいる人たちが、Sさんに聞 く。Sさんは「バーンサバイの新しいスタッフだよ」と私を紹介する。すぐに「最近、どうしてたの?」とか「体 の調子はどう?」、「雨が降ると、できものの痕が痒くなるんだよ」と会話が続く・...。 まず、AIDS以外の病気で診察を待っている人々がいる総合待合所で、自分たちの病気を隠すこと なく話し合っている姿に驚いた。私が日本でHIV検査を受けた時などは、受付から待合所、採血所、医者から結果を聞く診察室、すべてが「プライバシーを守るため」に細部まで配慮されていた。おそらくHIVに感染していることがわかった後に病院へ診察に行く際も、「プラ イバシー保護」がきちんと守られるだろう。このような姿勢の結果、日 本では病気を他言することができる機会がなかなか得られないので はないかと思う。しかし、今日私が居た光景は、談話の中に当たり前のように病気についての相談が含まれている。知られ たくないことを秘密にできる環境は大切だが、1人で悩み苦しむのではなく、悩 みを分かち合うこができる場も同じぐらい大切である。建物やシステム、国民性の 違いから生じたのかもしれないが、タイではこのような場が上手く機能している場面を見た。 しかも、待合所での会話には、「共感」・「安心」・「親密さ」が溢れている。同じ病気を抱えた者同士だからこそ、これらが生まれるのだろう。私も「心からSさんのことを知りたい」、「少しでもSさんの気持ちがわかりたい」 と思う。しかし、同じ悩みを持つ人たちだからこそ、安心して話ができ、理解し、アドバイスができることがある。待合所で見た「共感」・ 「安心」・「親密さ」に軽い嫉妬を 覚えるのは、私の中のどこかに「Sさんのために何かができる」という 強い思い上がりがあるからだろう この思い上がりを自覚し、彼を抱 え込むのではなく、Sさんが主役 であるSさんの人生に登場する脇 役を謙虚に務めていきたいと思う。バーンサバイで働き出してまだ 2ヶ月で、1昨年からのボランティアを含めても、僅かな時間にしか ならない。この間に、患者さんたちからは何度も「自分は近いうち に死んでしまう」という言葉を投げ かけられた。人間誰しも限りのある命であることには変わりないが、バーンサバイに 通う人々はAIDSという未だ完治できる方 法がない病気と共に生きているため、 「死」に直面している。4月に1人の患者さんが亡くなったが、この知らせを聞いた他の患者さんたちの表情が一瞬にして強張った。そこには、「次は自分かも...」 という悲痛な想いが形を持って現れていた。 私たちすべては、「死」のイメージを抑えることで生きていると思う。同じ病を持つもの同士だからこそ分かり合えるものが多いが、彼/彼女らの間で「死」を語るには、あまりにも具体的過ぎるのだろう。 能天気に生きている私だからこそ、彼/ 彼女らの話を聞くことができる。和やかな会話の流れから突如と表れる「死」という 言葉に対して「励まし」などできもしないが、聴き続けていきたい。これが私に求められている役割の1つだと思う。 話は変わるが、待合室で談話が続いている間、ある人に「AIDS患者が入院している。会うか?」と紹介され、1人の入 院患者と会った。話を聞くと、「もうすぐ退院できるのだが、体調が完全に回復するまでの間、身の回りの世話を手伝ってくれる人がいない」と言う。その時には「問題が起きたら、バーンサバイに連絡してください」と伝えたが、 彼から未だに連絡がない。おそらく家族や友人など、手伝ってくれる人が見つかったのだろう。彼の 場合は異なったようだが、体調が悪いために1人では生活ができない、また介助 してくれる人もいない。そのような人々に は直接的な看護や介護のような緊急支援も必要である。
(バーンサバイ;スタッフ)