バーンサバイニュースレター第7号


バーンサバイニュースレター第7号
 

生きる力を分け与えて〜HIV感染者ネットワークで活動を続けるサリニーさん〜 川口 泰広・石田 愛

IV感染者のネットワーク“グルム・レン ジャイ・ハイ・チーウィット(生きる力を分け与えるという意味。以下、 PHA-Net。)"は、チェンマイ市内から少し離れたメーオーン郡というところにある。 そこで、中心的に活動を続けるサリニーさんは自らもHIVに感染している。一人娘のヌーちやんは今年小学5年生。今は、PHA-Netの活動で知り合った、現代表 のコーンカムさんと3人で一緒に暮らしている。感染が分かる前は、母親と一緒にソムタム(パパイヤのサラダ)を売っていたというサリニーさんは、どこにでもいる普通の女性で、バリバリと活動するタイプでもなく、いつも、淡々としている。 サリニーさんが HIVに感染していると分かったのは7年前のこと。当時つきあっていた男性が急死し、その症状がエイ ズに似ていたので、自分も検査したとこ ろ感染していた。感染が分かった時、特に悲観的になることはなかったという。一 緒に検査に行き、同じく感染していると分かった母親はすでに亡くなっている。
く日々の生活>
サリニーさんの一日は、娘のヌーちゃんを学校に送り出すことから始まる。コー ンカムさんは、一日中牛の世話に追われ ている。ヌーちゃんはタ方5時に学校から戻って来るので、サリニーさんは他の地区の会議等に参加している時でも、遅くとも6時には帰って来て、タ食を作る。 11月21日からメーオーン病院で新しいプロジェクトが始まり、毎週月曜日は結核や糖尿病などの専門医や看護師と一 緒に、メーター地区の保健所へ行き、移動クリニックのようなものを行う。メーター地区とターヌア地区の住民に対し、健康診断や病気の相談を受けつけ、その中にはHIV感染者も含まれる。また、サリニーさんの他、3人の感染者もエイズクリニック(※)のボランティアとして参加し、新しく感染を公表した人達や、エイズによって親を失った子供、面倒を見てくれる 家族を失ったお年寄りに会いに行く。 サリニーさんによると、「毎週金曜日にも病院でエイズクリニックを行っています が、その時はみんな抗HIV薬を受け取りに来るだけなので、月曜日の方がよりじっくりと話すことができます。」とのこと。 そのうち、抗HIV薬もそこで渡すようになる。火曜日にやはりメーオーン病院で実施している針治療プロジェクトも、この 2つの地区は病院から離れていて通い難い為、月曜日にその場で行っている。
*サリニーさんの一週間*
月/移動クリニック。
エ 火/ メーオーン病院にて針治療の手伝い。
水・木/特に決まっていない。
金/ *ーオーン病院にてエイズクリニックの手伝い。午前中は抗HIV薬を取りに来る感染者の対応にあたる。 午後は、午前中に来た人たちの記録を作成。
土·日/ 特に決まっていない。
現在、 サリニーさんが関わっている活動は、 エイズクリニックの活動が中心になっている。月曜日と金曜日の活動もその中にふくまれる。PHA-Net としての活動は、 エイズで親を失った子どもや、面倒をみ てくれる家族を同じくエイズで失くしたお年寄りの家庭を、週に1~2回訪問し、政 府やNGOとの間に入って支援の橋渡しをしている。また、牛を飼育し子牛の売 却益で基金を作り、エイズ孤児に奨学金 を出している。
空いている時間は、会議や他のところ で活動があれば参加し、それ以外は裁縫の内職をしている。
く現在の感染者の状況ー4〜5年前と 比べてー>
●健康面
以前は、まだ抗HIV薬が一般に広く出回っていなかった。適切な治療法もなく、 医師も手探りの状態だった為、発症してしまうとどうすることもできず、死を待つだけだった。
現在では、抗HIV薬も普及し、治療法が確立されつつある。医師が抗HIV薬を出す際には、どのような日和見感染症の症状がでているのかチェックし、まずその治療を行う。もし、日和見感染症の症状がなく健康であれば、抗HIV薬を服用する必要はないので、今は感染者が来てもすぐに抗HIV薬を出すことはない。
●コミュニティ
以前は、HIV感染者に対する偏見や差別が露骨に見て取れ、ずいぶん嫌な思いをしたという。例えば、サリニーさん自身、母親とソムタム(パパイヤのサラダ)のお店をしていたことがあり、結構売り上げもよかったのだが、感染が分かって以降さっぱり売れなくなった。
それに比べると現在は、住民のエイズに対する理解も広まり、嫌な思いをすることも少なくなったが、まだ偏見や差別は残っており、感染者を受け入れられない人もいるという。感染者自身も、今では自分が感染していることを公表するようになったものの、公表できない人もいる。
「公表しなくても、お金があれば抗 HIV 薬を病院で買って飲むこともできます。でも、抗HIV薬には副作用もあり、その度に薬の配合を変えたり、定期的にCD 4の値等を検査して、日和見感染症に対応しなくてはいけません。公表できない人は、もちろん医師にも相談することができないので、それら適切な医療を受けることができません。」
●公的機関の対応
最近、ようやく抗HIV薬が30バーツ医療制度でカバーされるようになった。以前は、政府はこの問題にあまり関心を示していなかったが、感染者自らが政府と交渉、提言を繰り返し、ようやく実現した。 先頭に立って運動してきた感染者の中 には、途中で力尽き命を落とした人もおり、そうした彼らの命と引き替えに今の恩 恵があるのだと、サリニーさんは言葉に 力を込めた。 予算面では逆にエイズ関係の団体は やりにくくなってきている。以前は、感染 者自らの活動が重視され、政府や海外 のNGO等もエイズ関連のプロジェクトに 多額の資金を提供していた。PHA-Net も海外から予算の支援を受けたこともあったが、現在ではそれらの資金は、他の 分野に流れていってしまっている。 「今では、感染者は自分で健康管理が できるようになり、普通に生活ができるようになった為、私たちの活動はもうある程 度前進したと見られているようです。」 政府からの予算もどんどん減ってきていて、色々なNGOやグループが申請出しても、予算が下りないこともあるという。 予算の申請の仕方も変わってきており、以前は小さなグループでも独自で申請を出せたが、今では県の感染者ネットワークで調整されてしまう。その、県の感染 者ネットワークにおりてくる予算も減ってきているという(数十万バーツのみ)。
<PHA-Netでのこれまで、そしてこれか ら・・・>
サリニーさんがこういった活動に参加するようになったのは、HIV感染者の活動をしている団体のボランティアがサリ二ーさんの家を訪れたのがきっかけだという。そのボランティアもHIVに感染していた。翌年からそのグループの活動に参加するようになるが、主宰者との間で問 題が起こり、他の感染者ボランティアと共 に団体を離れた。2000年、新しく今の HIV感染者のネットワークを始めるが、翌 年の2001年には当時の代表クワンネー トさんが亡くなってしまう。その後もグループが二つの郡に分かれたり、運営費 が確保できず無給で活動を続けたりと、 けっして平坦な道のりではなかった。 PHA-Netを立ち上げる前にも、HIV感 染者のネットワークはあったが、感染者 の健康管理を支援する活動や、子ども の支援策などはなく、感染者自身が関わる機会はなかったという。 PHA-Netを立ち上げたことで、感染者 自らがそれらの活動に関わるようになり、 自分の暮らす地域で同じように感染して いる人の状況を知ることで、お互い助け 合い、より自分たちの問題を具体的に提言することができるようになったとのこと。 「以前の感染者は、どこに何があるのかも分からず、感染を公表するにも勇気 がでないという状況でした。その為、 PHA-Netを立ち上げたときも、まずは普通に話をすることから始め、その中から 彼らの抱えている問題を引き出し、解決 方法を探るというやり方で、徐々に信頼 を得ていきました。医者や看護師には言 えなくても、同じ感染者である PHA-Net のメンバーには言いやすいこともありま す。私たちが医療従事者と感染者の間 に立って、その仲介ができるようになった
のは一つの成果だと思っています。」

Q.会議や活動に参加する人が少なくなってきたが、PHA-Netの役割が変わってきたのでは?

以前と比べると確かに参加する人数は少なくなっています。以前は、感染者の 体調も悪く、家にいる人が多かった為、 活動に参加する時間がありました。しか し、今は感染者の健康状態もよくなり、普 通に仕事ができるようになったので、活 動に参加することが難しくなったのでしよう。自分の家族を養うことを一番に考えるのは、当然のことだと思っています。感 染者が健康を取り戻し、仕事をする人が増えた結果、活動に参加する人数が減ることもあるでしよう。家庭訪問や患者の 訪問は今も続けています。新しい感染者 に対しては、他機関との間に入ったり、 支援を行ったりしています。その人たち が健康になり、仕事ができるようになって、 地域で暮らせるようなったら、私たちはまた新たな感染者を対象として、活動を続けていくでしよう。活動に参加する人数 が少なくなったとしても、役割自体変わる ことはありません。

Q、政府を含め、色々な団体が奨学金 を出すようになってきているが?

奨学金をもらっている子ども達が、他の団体からもらっているのかどうか、私たちが完全にチェックすることはできません。 保護者の中には、他の団体から支援を受けていてもそれを言わない人もいます。 奨学金を出している外部の団体から、情報を得ることはあっても、本人に直接聞いてもやはり本当のことは言いません。 誰でも、より多くの支援が欲しいと思うで しょうし、私たちはその子が他から支援を もらっているのかどうかだけを、奨学金の 選考基準にするつもりもありません。その 家に行って、現状を目で見て判断するようにしています。例えば、働けないお年 寄りと暮らしているとか、発症した両親と 暮らしているなど、そのケースがたとえ他 から支援をもらっていたとしても、さらに 支援を必要としている場合もあるからで す。支援の大小にかかわらず、自分たち が助けるべきだと判断したところには、手 を差し伸べたいと思っています。

Q.もし、今後日本からの支援や寄付がなくなったら?

私自身は、PHA-Netの仕事をしながら 他のこともやっています。もし、今後日本 からの運営費(事務費諸経費とサリニー さん、コーンカムさんへの給料)の支援 がなくなった場合は、運営委員会を開いて話し合う必要があると思っています。 今まで、牛の飼育で得た売却益はすべて奨学金とし、その他には一切使ってきませんでしたが、今後もし運営費がなく なったら、その一部を運営費に回すこと も考えなくてはならないでしょう。現在のような規模は維持できないでしょうが、それでも手元にある資金で、できるだけ継続して活動を続けていけるようにしなければなりません。 資金は使い切るのではなく、それを活 かして新たな利益が得られるような使い方をしていきたいと思っています。現に、牛の飼育プロジェクトでは、ある程度の成果を上げることができました。5年前、 私たちは日本の方から頂いた支援金で、 雌牛を5頭買い、子牛の売却益をエイズ 孤児の奨学金にあてるプロジェクトを始 めました。今では、その雌牛から生まれた子牛が、奨学金という形になり、子ども 達の役にたっています。 それ以外に日本から頂いた寄付金は、 運営委員会で話し合って牛舎の建設費 にあてています。なぜ、今牛舎が必要か というと、これまではエイズの影響を受けている家族やその親戚に牛の飼育を依頼していました。例えば4頭預けて、4頭 子牛が無事生まれたらその内2頭は、牛 を飼育した家族のものになるというやり方 で、その家族の家計も助かると思い続けてきました。しかし、子牛が手に入ってし まうと、他の預かっている母牛はいくら育てても自分たちの物にはならないので、 早く返したがります。今、2〜3の家族が 牛を返却してきており、牛の飼育プロジェクトの責任者であるコーンカムさんが、 その世話をしなければならない状態です。 場所も、急遽用立てたので十分ではあり ません。探せば他にも牛を飼いたい家 族がいるかもしれません。しかし、ここ数 年ほとんどがこういった理由で牛を返却 してきており、またどの家族に預けた牛も 飼育が不十分で、渡せてしまっていまし た。渡せた牛は体調を崩しやすく、その 度にワクチンや注射で対処するのであれば、いっそうのこと自分たちで飼育した方がいいのではないかと考えるようになりました。
悲しいのは、運営委員会の人達はそのことにあまり関知していないことです。牛の飼育によって私たちだけでなく、他の人たちも同じように恩恵を受けているは ずなのに、なぜ私たちだけ問題の対処 に悩み、苦労しなければならないのかと時々思ってしまいます。でも、私たちは PHA-Net の活動に初めから関わってきた者であり、牛の世話も他の人たちよりも しっかり飼育できると思っています。
コーンカムさんは今、一日中牛の世話 に追われているため、以前のように日雇いの仕事には行っていない。家に入る 現金収入はその分減ってしまった。今で はPHA-Netの給料とエイズクリニックの 給料が唯一の定期的な現金収入である。 それで、やっていけているのか聞いてみ ると、無いなら無いなりに何とかやっていくしかないとサリニーさんはさらりと言う。 コーンカムさんは牛の面倒をよく見ていて、今、3ライある土地を貸しているので、 半分返してもらって牧草を植えられるよう に、借り主と交渉しているそうだ。そうす れば、道端の草やトウモロコシを刈りに 行かなくてすむようになる。
「最近一番うれしかったのは、牛の飼育プロジェクトで生まれた子牛が、お金という目に見える形になり、実際に奨学金として支援できたことです。2~3年前まで は、子牛を飼育していても高い値で売れるまでなかなか成長せず、その成果を感じることができませんでした。ようやく最 近それが実現できるようになりました。」 個人的にうれしかったことは?と聞いて みると、特にはないという。話を聞き終わった後、コーンカムさんに連れられて牛 を見に行った。後ろから、ヌーちゃんを 自転車の後ろに乗せて、サリニーさんが よろよろこぎながらやってきた。ヌーちゃんはそれがおもしろいのかケラケラ笑っている。サリニーさんが笑顔で、ゆっくり 私たちを追い抜かしていく姿を見ていて、 ここまで活動を続けてこられた理由がなんとなくわかった気がした。 PHA-Net の運営費は来年の4月で終 わり、その後のめどはたっていない。 ※エイズクリニック タイの病院にて、抗HIV剤を提供し、 HIV感染者の相談を受けるプロジェクト。 グローバルファンドが資金を出している。
川口泰広(タクライ事務局/バーンサバイ 運営委員)・石田 愛(バーンサバイ元ボ ランティア)

マリ通信  バーンサバイ2005年度上半期入寮状況 - 早川文野

朝タ吹く風が冷たくなり、チェンマイにも冬がやって来ました。バーンサバイは古いタイ式の木造家屋ですから、1階部分はスペースがあり、そこで食事をして います。冬の朝食は、暖かな飲み物がとてもおいしい季節です。 ある夜電話がかかり、受話器の向こうか ら聞き覚えのある声が聞こえてきました。 バンコクに住むOさんです。彼女は元気で問題がない時は、まったく連絡がありません。しかし何かあると必ず連絡が入ります。私は何か困ったことがおきたのかと、ドキッとしました。しかし彼女の声は 明るく、元気そうです。「私結婚して、とて も元気。CD4も300を越え、今幸せ!」 と言うのです。Oさんがバーンサバイに 入寮したのは開設当初でしたから、すで に3年以上の時を経ています。とても衰弱し、死ぬ前に家族に一目会いたいと 思い、日本から帰国しました。当時は歩くこともできませんでした。帰国後もいつ も問題がおき、バンコクとチェンマイを行き来したこともありました。その彼女が結 婚をしました。夫となった人は、非感染 者ですが、彼女の病気をよく理解してく れて、とてもやさしいそうです。出会った 頃は、CD4も10以下で、抗HIV薬も飲んだり飲まなかったり。そのため、一時期 は150を越えていたCD4が、16まで下がったこともありました。1人では定期診 療にも行かず、抗HIV薬の服用もやめてしまうため、毎月バンコクまで出かけて いました。弱って、おむつをして寝ていた姿を思い出すと、現在健康に幸せに 暮らしていることに感謝の気持ちでいっぱいになります。ほんとうにうれしい知らせでした。他の方たちも、Oさんのように
どのようなことがあっても、果敢に生き抜 いていってほしいと願っています。
さて2005年度上半期の入寮者数は9 名で、全員女性です。今期は20歳前半の方が多く入寮しました。残念ながら、2 名の女性がわずか23歳という若さで、この世を去りました。また、自立支援事業 で働いていた女性がレストランで働くことになり、バーンサバイを出て、自立しました。
Nさん(18歳) 女性
ミエン族の出身。チェンマイから5時間 くらいの村に住んでいました。Nさんが8 歳の時、父親が結核で死亡。その後母 親が再婚しました。新しい父親がHIV感 染者で、彼から母親に感染。母親は彼 女が14歳の時に死亡しました。幼い弟 (15歳)と妹(9歳)は他の地域にある寄 宿舎つきの学校に入学するため、家を 離れました。Nさんはそのまま義父と2人 で暮らしていました。中学校を卒業後、 地元の工場に就職。とうもろこしやラムヤイの皮をむく仕事で、日給100バーツくらいの給料でした。しかし、義父も2年前 にエイズで死亡し、Nさんは1人になってしまいました。そして1年くらい前に、手 が震え、物を落とすという症状が現れ、 病院へ行くようになりました。体調が思わしくないため、工場は休職しました。この 症状は治まりましたが、今度は甲状腺の 病気になり、良くなるには1年以上かかる と医師に言われています。体調が良くなり、以前働いていた工場に行ったところ、 もう仕事はないと言われました。生活手段をなくしたNさんのために、時折近くに住む祖母がお金をくれ、それで生活をしていました。 博が亡くなった後も、義父と同居していましたが、部屋と部屋の間にドアがないことから、おばや隣人たちに義父と性的 関係があるのではないかと疑われ、NさんもHIVウイルスに感染しているとうわさされるようになりました。そのため、家を 追い出され、1ヶ月間、友人や知人の家 を転々として歩きました。恩師が彼女の 状況をみかね、学校の図書館のアルバ イトを紹介してくれました。しかし住む家 がなく不安定なので、地元の教会の牧 師からCAMのサナン牧師に、エイズの 女性が困っているので助けてほしいと連 絡がありました。 すぐに、CAMのスタッフとバーンサバ イのスタッフが、Nさんに会いに行きまし た。Nさんと話したところ、彼女は義父と の性的関係やHIV感染を否定。おばや 隣人は正反対のことを話します。結局Nさんが血液検査をしたいと希望しました ので、彼女をバーンサバイに連れて来ました。検査前のカウンセリングを行い、検 査を受けました。結果はネガティブ(陰 性)でした。 彼女には帰る家がありませんので、チェンマイで安心して住める場所を探し、 山岳民族の少女のための自立支援セン ターがNさんを受け入れてくれることになり、移りました。現在はそのセンターで縫 製などを習っています。 Nさんは周囲の間違った思い込み、疑 いから、彼女がエイズであるといううわさが広まりました。その結果、家も仕事もすべて失うことになりました。タイでエイズと いう病気が出てから20年以上がたち、そ の間多くの人々が差別や偏見と闘ってき| ました。以前と比べ、エイズに対する種| 解は深まってきているとは思いますが、 まだまだ壁が厚く高いことを、再確認しました。知識的には理解できても、感性や心で理解できない、その垣根を越えることのむずかしさを感じています。
Tさん(38歳) 女性
チェンマイ出身。チェンマイ近郊で、1 0代から美容師として働いていました。2 0歳の頃、最初の結婚をしました。長男 (18歳)が生まれましたが、数年後に離婚。美容師をしながら、1人で息子を育てていましたが、建設現場で働く10歳年 上の男性と知り合い、再婚しました。2人 の間に長女(8歳)が生まれました。3年 前に体調を崩し、病院へ行ったところ。 HIVウイルスに感染していることがわかり ました。その際、夫も感染していることが わかり、その後彼とも離婚しました。 Tさんの具合が悪いため、現在長女は 田舎に住むTさんの母親が養育していま す。時折娘がTさんを訪ねて来ます。Tさんには姉が1人いますが、Tさんの看病 をするために、同居していました。しかし、 あまり介護はしてくれず、食事もいっしよ にはしないという状態のため、最終的に 姉は家を出ました。その代わり、長男が 家に戻り、Tさんと住むようになりました。 以前は、腕のいい美容師として、かなりの給料を得ていましたが、現在は働くことができませんので、長男の給料で生活しています。
Tさんが結核になり、かなり衰弱したため、近所に住むクリスチャンの隣人がバ ーンサバイに連絡してきました。Tさんの結核は特殊で、普通なら6ヶ月間で服用が終わる結核の薬も、2年間飲むように言われています。また、サイトメガロウィ ルスの影響で、両目の視力が低下し、治療を受けています。2ヶ月前から、抗HI V薬を服用し始め、31だったCD4が、今 は81まで上がってきています。
出会った頃のTさんは、足に力がまったくなく、歩くのもたいへんでした。しかし、 少しづつですが、力が戻ってきています。 これから時間をかけて、心身ともに前向 きになるようにサポートを続けていく必要 があります。
バーンサバイの活動も4年目に入り、この年月の間にかかわらせていただいた HIV感染者/エイズ患者の方たちの状 況も変わってきました。息子さんが大きく なり、教育費がたいへんになった方、今 は地域に住むエイズの方たちのための ボランティアになった方、結婚した方など、 それぞれさまざまな状況におかれていま す。しかし、共通していることは、1人1人 がたくましく、人生を歩んでいることです。 ここに入寮した時は、ほんとうに心身とも に衰弱していましたが、その時の姿がうそのように、果敢に生きています。そして、 その生きる姿勢が、私たちを励ましてく れます。今まで出会った方々、そしてこれから出会うであろう方々、それぞれの 生き方を大切にしながら、これからも 日々を重ねていきたいと、願っていま す。
(バーンサバイ;ディレクター)

また、一人の方を見送りました。  ― 青木惠美子

0月21日の夜、患者が一人亡くなりました。ナレさんというまだ23歳の女性で した。彼女はラフ族という山岳民族で、バーンサバイに入ってきた時、体重が30 Kgもありませんでした。免疫力の値CD4 が23しかありません。普通健康な人間は 800~1,500位あります。250以下になってエイズが発症したと言われます。23 はとても低い値です。バーンサバイに入 つてくる人は低い値の人ばかりです。C
D4が0という人もありました。免疫力が低い人で、貧しい人には国から抗HIV薬 が出るのですが、彼女はタイ人でないため、タイの国の福祉は基本的には受けら れません。もし、タイ人だったら、国が出 している貧しい人のための抗HIV薬が 貰えるのですが、彼女は貰えません。何かに付けて山岳民族は差別されていま す。お医者さんは抗HIV薬を飲んで免 疫力を上げるしかないと判断しました。しかし私たちは余りにも彼女が細いので薬の副作用に耐えられるかどうか心配しました。と言っても、お医者さんの判断には逆らえません。それに免疫力が低いのでどんな菌に冒されるかも心配です。バーンサバイがお金を出して、抗HIV薬を 飲み始めました。しかし、案の定副作用 のため、発熱しました。今までにもバーン サバイに入ってきた患者さんたちの多く が通ってきた道です。「あの人も大変だ ったんだよ、でもあんなに今では元気に なっているでしょ」と一生懸命励ましまし た。彼女はバーンサバイに入ってきて以 来、笑顔を見せてくれたことがありません。 心も閉ざしたままです。夫と別れ、深く傷 ついているようです。それにしんどいの でしょう。熱が続いて食事も進まず入院 しました。そして点満をしばらく続けて、元気になって帰ってきました。バーンサ バイでは寝る前に、本人の了解を取って、 お祈りをします。そのときは仏教徒が一 人と彼女が入っていましたが、ナレさん はクリスチャンです。物論お祈りは喜んでくれます。仏教徒のもう1人の患者さん もいつもお祈りを喜んでくれます。3人で ナレさんが退院できたことを感謝して祈り しました。彼女は初めて笑ってくれました。 とってもきれいな笑顔でした。母親の手 の内にあるような安心した笑顔でした。 やっと楽になったのだと私はとっても嬉しかったです。患者の笑顔ほど婿しいもの はありません。それからはだんだんと食 欲も出て、わたしが声をかけると、よくは にかんだ笑顔をみせてくれるようになりました。体力が少しずつ付いてくると喜んでいましたのに、ある夜急に動棒が激しくなり、苦しみ始めました。その夜も9時 にお祈りして、そのときは何でもなかった のに、夜中に同じ部屋にいたもう1人の 患者さんが彼女の急変に気がつき、私 を起こしに来てくれました。車で通っているスタッフを呼んで即近くの病院に入院 させました。3、4日でなんとか落ち着き、彼女が薬を貰っている病院に転院しまし た。そのタ方急に悪くなったと知らせが入り、飛んで行きました。意識が朦朧としています。前の病院では退院しても良い といったはずなのに、どうなっているのか 心配でなりません。注射をしてもらって、落ち着いてきました。意識もはっきりして私のことも分かりました。彼女の兄嫁さんが子どもを連れて駆けつけてくれています。なんとか落ち着いたようなので、 もし 何かあったら電話をくれるように頼んで、ナレさんを兄嫁さんに任せてバーンサバイに帰りました。今、バーンサバイで働いているトムさんも、ヌイさんも何度も死線 をさまよったことがあります。きつとナレさんも乗り越えてくれると願い、祈ってその 夜を不安の内に過ごしました。朝になって、電話が無かったので、危険は過ぎた と喜んで、朝一番に早川さんに病院に 行ってもらいましたら、なんと亡くなって いました。前の夜遅く亡くなったといいま す。彼女は山岳民族のラフ族なので、同じラフ族で彼女をバーンサバイに連れて きたNGOのスタッフに連絡が行っていたのです。彼は夜が遅かったので、バー ンサバイに連絡してこなかったのです。 わたしは頭にきました。連絡してくれていたらすぐ病院に飛んでいったのに、身体が温かい間に会いたかったのにと悔しくてなりません。外国で仕事をしていると、 言葉が不十分ということもありますが、ちぐはぐになることが良くあります。タベ付いていれば、こんなこともなかったのにと 自分が腹立たしくてなりません。とにかく祈祷書を持って病院に飛んで行きました。 すでに霊安室に運ばれており、身体が 包まれて、顔が見えません。足先だけが 出ていて足をさすりながら祈りました。早 川さんと兄嫁さんたち家族とで遅まきながら前夜式を行いました。前日から彼女 が危篤だと母親にも知らせていましたの に、まだ到着していません。ラフ族のナ レさんの母親はビザがないため、来る途 中に警察に捕まったのではと心配です。 兄嫁一家は葬式を出す金がないといい ます。その日のタ方バーンサバイで火 葬だけの葬儀をわたしが司式をして行い ました。兄嫁夫妻が持っていたお金は1 11バーツ(約333円)だけでした。葬儀 にかかった費用は2,690バーツ(約8070円)です。せめてもと思い白い花東をバーンサバイで用意しました。お母さんは 結局間に合わなくて、いまだにどうなったか分かりません。捕らえられたままでは ないかと心配しています。お兄さん一家 と近所の子どもたちそしてバーンサバイ の患者、スタッフだけの寂しい葬儀です。 皆で1本ずつ花を手向けました。日本の 葬式とはえらい違いです。これが貧しい ということです。貧しい葬儀でしたが、わたしは精一杯努めさせてもらいました。ラ フ族も日本人も知っている「慈しみ深き 友なるイエス」を皆で賛美しました。わた しは一人で「安かれ」を賛美し彼女に贈 りました。やすかれわがこころよ、主イエ スはともにいますと賛美しながら涙が出てしかたがありません。23歳の若さで逝ってしまうなんて!初めて笑った時の笑 顔が思い出されて、あの輝いていた笑顔が思い出されて、今、主の手の中で笑っているのだと自らを慰めました。 (バーンサバイ;スタッフ)

エイズの人々と共に ― プラユーン・ムーンラー

私の実家はチェンマイから250キロメートル離れた、北部でも下のほうに位置 するウタラディット県にあります。チェンマイのパヤップ大学神学部を卒業し、サンカンペーンでHIV/AIDSで両親を亡くした子供たちに関わった仕事をしてきました。そしてCAMにも参加し、キリスト教 の教えの下、エイズの方々の家庭訪問などの活動を行ってきました。
バーンサバイのスタッフとなってから約 6ヶ月になりますが、その前からバーンサバイの活動には参加してきました。文野 さん、恵美子さんと出会ってからバーンサバイと関わる仕事が多くなり、今ここで 仕事をするまでに至っています。<やりたいこと>
全ての人に愛情を注ぎ、助け合いたいと思っています。励まし合い、友情を築 いていくことは、社会がいつも求めていることであると感じています。 奉仕することは私が好きなことでもある し、いつもしていたいことでもあります。 感染者、発症者と共に働くには、互いに 理解しあわなければなりません。そのこと で、信頼感が生まれ、安心感を築いていけると思っています。精神面は最も大切 なことで、暖かな気持ちでいつも接して いかなければならないと思っています。 みんなの体、そして心の健康のために 働くことは、自分もとても安らかな気持ち になることができます。

<バーンサバイでやっている仕事 >
‐ バーンサバイ入寮者のカウンセリングをしています。
- 日曜礼拝でお説教をしています。
- 病院で治療を受けるために、患者を病 院まで送り迎えしています。
- チェンマイのスラム居住者や子供たちの感染者、発症者のお見舞いに行っています。
- バーンサバイと関連するNGOや組織 などとの連絡をとっています。
- バーンサバイができるその他の奉仕活 動を行っています。

<考え>
感染者には体調を維持して欲しいし、 体調がさらに良くなるように自分が力になっていきたいと思っています。 そして抗HIV薬を飲んでいつも健康な 体で作業をし、幸せな気持ちで社会と共 存していって欲しいです。 ここでみなさまと仕事をする機会、そして新しい経験を与えてくれたバーンサバイに感謝いたします。そしてバーンサバ イを支えてくれている方たちにも、私に 機会を与えてくれたことを感謝したいと 思います。自分が出来る限りの力でこれからも一生懸命やっていきたいと思っております。ありがとうございます。
(バーンサバイ;スタッフ) [訊:石川智子]

バーンサバイで「追体験」 ―  西光佳乃子

皆さん、初めまして、西光佳乃子と申します。今年の5月にバーンサバイへ参り ました。今ここで、支援者の方々のデー タ管理や文書管理、会計等、おもに事 務のお仕事をしています。
バーンサバイは HIV感染者やエイズ患者さんのためのシェルターですが、私自身、エイズのことを、またシェルターのことをよく知っていたわけではありません。 日本に居た時、新聞や文献で読んだり、 人の話を伝え聞いたりということはしばしばありましたが、実際に自分がエイズに関る活動に係ったことはありませんでした。チェンマイに来る前にも、バーンサバイのニュースレターをすべて読んで来 ましたが、自分のこれまでの小さな経験からでは全く想像のつかないものでした。 この度バーンサバイに携わる機会を頂いて、今まで自分の見聞きしてきた情報を 「追体験」しながら、多くのことを吸収して います。 バーンサバイでは、1階の大きな食卓 で皆が輪になって、時には見学に来て 下さった方々とも一緒に、お食事を頂き ます。私にとって大勢の人と食卓を囲む ことは本当に婿しいことです。普段は皆 でほぼ同じ内容の食事を頂くのですが、 時々具合の悪い患者さんがおかゆを食べていることがあります。食べるという日 常的な行為を通して、彼/彼女達の健 康状態も知ることが出来ます。また外出 する時に長袖を着、皮膚に残る斑点を 隠す様子を見て、私が考えている以上 に彼/彼女達が自分がエイズであるという事実を受け入れることの難しさを学び ます。 ここでお仕事に携わるようになってから は、バーンサバイが本当に多くの方々に 支えられているんだなあということを実感 しています。今バーンサバイは約3,300 名の方々にニュースレターをお送りして
います。他にもバーンサバイにお便りを下さる方、見学に来て下さる方、具体的 なコンタクトはないけれどホームページを 見て下さる方等、遠く離れたところでもバーンサバイのことを覚えて下さっている 方々がいます。しかし、支援者の方々か らは、入寮者の顔が見え難いかもしれません。また、入寮者にとっても支援者の 方へ思いを置くほど余裕がないかもしれ ません。それは、エイズという非常にデリ ケートな問題を扱っているということもあると思います。 そのような状況において、今までなか なか既存のタイ社会で受け入れられな かった彼/彼女達が、バーンサバイを出てどのようにタイ社会へ戻り正面から自 分の人生に向き合っていくのか、それを バーンサバイがどのようにお手伝いでき るのか、本当に難しい課題です。私がこの6ヶ月、傍に居て分かっただけでも、日 本で想像していた以上に長い年月がかかるようです。私がバーンサバイで出来 ることは本当に限られた、小さなことです それでも支援者の皆さんとHIV感染者 エイズ患者の方を結ぶ大事なお仕事だ と誇りを持っています。バーンサバイを通して、少しでもそれぞれの方の思いを 繋ぐお役目ができればと思っています。 (バーンサバイ;スタッフ)

あるがままを受け入れ、無条件の愛に徹する ― 宮澤 みゆき

私がバーンサバイに来て、5ヶ月が経ちました。私の仕事はHIV感染者の自立への手助けとして、バーンサバイ内での食事の準備や建物の衛生管理を共にしていくことです。 バーンサバイの中には自分の仕事として料理をする感染者もいますが、カード 作りの仕事を持っている感染者や、眠っていることの多い感染者であっても、今 日は料理をしたいとなれば、この人が最 初に食べたい物を作り、それ以外に私が 栄養のバランスや日本人スタッフの食べ 易い物を考え、作ります。市場への予算 内での買い物も一緒に行き、料理をしたい人が必要な品物を購入し、残された予 算で私が考え、購入することもあります。 日本であるならば業務用青果市場といったところムアンマイ市場の朝はすごい人ごみで、道路の整備も悪いです。雨で も、暑くても大変な中を感染者、患者は 私がわからない食材やカタコトのタイ語 を助けてくれながら、疲れながらの楽しいひと時です。しかし誰もが料理をしたく なければ、しないこともあります。それは 料理をすることを仕事としている感染者 であっても、健康状態、精神状態が弱く なっていれば、バーンサバイは会社でないから、それでいいのです。 そして病院でもないので自分が好む料 理や食べ物を用意してくれる我儒ができるのです。その我儒ができる場所もこの人達には必要であるからです。なぜなら バーンサバイにたどり着いたHIV感染者、 エイズ患者の多くが過去に難民、売春、 児童虐待、ストリートチルドレン、麻薬、 刑務所での服役というような経緯を持ち、 不安、悲しみ、イライラ、劣等感、妬みなどを持って生き貫いてきた人々であり、 共通して言えることは、愛情を必要としているからです。
抗HIV薬が与えられても自立への道 は容易ではありません。さらに子どもで はないし、なおのこと人格が作られているからです。私は自我状態に偏見を持たないように注意し、日本の国なら、日本 人なら、タイ人でも教育を受けた人なら、 一般常識のある人なら、というような世の 中はこうでなければいけないとの考え方 が、バーンサバイの生活には当てはめられないこともしばしばあります。
このバーンサバイへ神から送られたH IV感染者、エイズ患者の健康と共に、過 去の経緯、関係とを理解しながら、共に 人格も変わって本来の自立への手助け ができるようにと祈りながら、試行錯誤の 日々です。
(バーンサバイ;スタッフ)