バーンサバイニュースレター第4号


バーンサバイニュースレター第4号
 

デーン・プラスート波灘の人生の記録

プラスート・デジャブン(通称:デーン)
(クリアスカイプロジェクトコーディネーター)

私は1993年に自ら感染を公表し、それから10年以上が経過しました。社会に暮らす人々、特に政策決定に関わるリーダーの人たちに、この病気についてもっと理解してほしいと思います。この病気によってもたらされる結果は、エイズは誰かに情けをかけることなどないという事実を知ってほしいのです。たとえ親戚兄弟、仕事の同僚、私たちを称え敬意を表していた雇用主、私たちを尊敬していた部下たち、エイズは彼らとの関係までも壊してしまいます。もしかすると、貴方も仕事を辞めさせられたー人なのかもしれません。または嫌がらせを受け、私が経験したのと同じように、貴方が協力して築き上げてきた会社から追い出されたのかもしれません。エイズは感染者の体だけを蝕むものではなく、彼らの精神を打ちのめします。またエイズは、感染者に関わりのある人々の精神までも消耗させます。エイズは、人間性を壊してしまうだけではなく、岩の上に落ちてしまった卵のように、人間関係までも粉々に打ち砕いてしまいます。 自分がHIVに感染していることを知ったとき、 まず二通りの生き方を考えました。一つ目は、 死ぬまでの間に可能な限り多くの人にウイルスを感染させ、たくさんの人を道連れに死ぬという、人生を当てこすった生き方です。二つ目の生き方は、社会のために自分を捧げる道です。 私は二つ目の生き方を選びました。 生まれた時から私の人生は他人と違っていました。生まれて僅か1ヶ月と3日目に、父と母が離婚しました。父のいない子どもになりましたが、しばらくして母が再婚しました。他の多くの家族が市内に出稼ぎに来ていたように、私たちの家族も働くために田舎から市内へ引っ越しました。その当時の政治体制は独裁色が強く、村人が死ぬような思いでつくった農産物も仲買人に差し出さなければならなかったので、農民は自らが食べていくことすらできませんでした。しかし、私は祖父母と田舎で暮らし、都会の華やかさを知らずに田舎の子どもとして温もりに包まれて過ごしました。 成長して6才になった頃、母親は私を引き取り市内で暮らすことになりました。1973年当時は、ちょうど学生と民衆が力を合わせて民主的な憲法を要求しており、食料が少なく物価の高い時代でもありました。 そんな時代だったので、家族は市内に住んでいましたが、貧しいことに変わりなく、それはとりたてて不思議なことでもありませんでした。 スラムの住民たちのように、彼徴い、その日暮らしの毎日で、仕事をするために貸家を探し回りました。金持ちと貧乏人の間には大きな格差がありました。 成長するにつれ、これら不平等の問題がはっきりと見えてきました。生活していくために考え、降りかかるすべての運命と闘い始めました。母親は、毎週日曜日、幼い子どもの頃から大きくなるまで、私を教会に連れて行ってくれましたが、このことが私たち家族にとってたいへん重要な意味を持っていました。私たちの家族は、人生を導いてくださるイエス様を中心に強い絆で結ばれており、たとえ家族がどのような困難に直面しても、いつも解決の方法を見つけることができました。 私はまるで闘士のように生きてきましたが、教 育が持つ重要性は忘れませんでした。高校を卒業すると、1986年にバンコクにある宗教学の大学に進学しました。その当時、母から頻繁に手紙が届きましたが、その中の一通が、今でも毎日のように思い出されます。その手紙には、隣人がエイズで亡くなったので、私にも気をつけるようにと書いてありましたが、誰かと寝るなどと考えたこともなかったので、あまり気にかけていませんでした。私が見た写真は、どこの誰かもわからない西洋人やゲイの人たちで、自分とは関係ないと感じていたので、そもそも、 エイズという病気は作り話だと思っていました。 きっと母はよくわからないままにやたらと驚いているのだろうと想像していました。 その後1989年になり、徴兵制に従い国のために働かなければなりませんでしたが、それは子どもの頃から心の奥で願っていたことです。 姉や叔母の夫が軍隊に入隊するのを見て、男児として立派だと感じていました。その当時、 軍隊の先輩から抜け出して外へ遊びに行くように誘われ、ついて行きました。軍の施設を抜け出して遊びに行かないようでは、一人前の軍人ではないと、先輩から教えられたからです。スリルがあり楽しかったので、私も好きでした。遊びに行く先は売春宿でした。宗教大学にいた頃の高潔な人生、イエス様と交わした約束、そして母からのあの手紙のこともすっかり忘れていました。 青年期の私の夢は、公務員になるために進学することでした。しかし、事故に遭ってしまい、同じ隊にいた軍人から非加熱の血液を6本も輸血しなければなりませんでした。結局、若い頃の夢が叶うことはありませんでした。 それまで生きてきた経験から、人生というものは、おもしろさを理解していれば、楽しい競争のようなものだと考えていたので、闘う手を緩めたことはありません。私たちは、常に自分自身と競走していなければならず、落胆したり、うんざりしている時間もなく、1991年には警備会社のマネージャーとして仕事に就きました。私の人生もようやく上向き、母親の支えになることができました。 1993年になり、体調が崩れ下痴をするようになりました。今までも友人やお客さんと一緒にお酒を飲みに行きましたが、どんなにたくさん飲んでも酔っばらうぐらいでした。ところが、その頃からお酒を飲むたびに下癖になり、とても 疲れるという症状が3日間は続くようになりました。自分では、仕事のやり過ぎ、頭の使い過ぎ、 ストレスの溜まり過ぎなのだろうと考えました。けれども、1992年に兄がエイズで亡くなったこ ともあり、自分でも疑い始めるようになりました。 母は兄の死をとても悲しんでいたので、私自 身も深く悩みました。もし私が本当にエイズに
それが何よりも心配でした。 兄をエイズで亡くした以外に、その警備会社の従業員だった部下もエイズで亡くなりました。 また、最も親しくしていた親友も同じ病気で重い症状でした。それぞれの人を見てきましたが、 どの人も社会からひどく嫌悪され、誰からも関 心を持たれず、またたく間に体調を崩して亡くなりました。感染者らも自ら燃印を押していまし た。社会で起こっている現実を知り悲しくなりましたが、何とかその問題を解決したいと考えました。しかし、会社の仕事だけでも手一杯で、 どうすれば解決できるのかわかりませんでした。  このような症状が出てきたので、何人かの人に相談することにしました。自分では、管理 職の病気と言われていたB型肝炎だと結論け、会社の社長に告げて、血液検査に行こうと 決めました。とあるクリニックへ検査に行き、医 者にB型肝炎を検査してほしいと言いました。 検査が終わってしばらくして、医者は一枚の紙を差し出しました。そこにはプラスート、HIVウィルス陽性と書かれていました。医者は、検査前にも終わってからも何も言わず、彼は何のカウンセリングもアドバイスもしませんでした。検査の結果に恋然とし、何も考えることができませんでした。 私は医者に「後どのくらい生きれるのか?」と尋ねました。その質問をしたのは、本当に答えがほしかったのではなく、母の事が思い浮かんだからです。母が一人になるのがかわいそうでした。兄を亡くしてとても悲しんでいたのに、今回、さらに私も失うことになります。 母親の面倒を見るために、私がどのくらい生きられるのか知りたかったのです。
医者は目の前を行ったり来たりするだけで、何も答えてはくれませんでした。最後に、さまざまな日和見感染症にかかっていると言いましたが、答えはそれだけで、そんなことはわざわざ言われなくてもわかっていました。 私がどこからHIVに感染したのかと聞かれれば、ほとんどの人は、きっと買春に行って感染したと考えるでしょう。実際、遊びに行ったことがあるので、その通りかもしれません。しかし、軍隊にいた頃、コンドームを配布する当番を任されていたこともあり、自分では長い間、常に感染予防をしていました。とはいえ、たとえコンドームを配布していた人間でも、失敗する機会はあります。 私自身は、事故に遭った際の輸血から感染した可能性の方が高く、きっとそうだと信じています。あの日は出血がひどく、病院にあった血液だけでは足りなくて、献血を申し出た軍人の血を6本輸血しました。こんなことを書くのは、誰かのせいにするためではありませんし、絶対にそうだとは言い切れません。同じように、私が買春をして感染したと考えている人も絶対だとは言い切れないはずです。 どこから、どのように感染したかは、どうでもいいことです。知ったところで、この病気が治る訳でもありません。 私はひどい精神状態で家に戻りました。最初に打ち明けた相手は、兄嫁でした。彼女は亡くなった兄からエイズに感染していましたが、とても強い人でした。慰めの言葉を投げかけるだけではなく、彼女は年配の人やもう一人この問題の専門家に会うようにアドバイスしてくれその日のタ方、私はとても力づけられました。 けれども、家に帰り、仕事に出かけると、深刻に悩むようになり、気力が失せていきました。 自分は違いなく死ぬのだと思い、恋人に打ち明ける決意をしました。彼女に私の運命を受けさせたくなかったからです。私たちはまだ 結婚しておらず、肉体的な関係もありませんでした。
彼女と別れるか、彼女が私から離れていってほしくて、打ち明けました。彼女につらい思いをさせたくなかったからです。私の未来は終わっていたので、彼女にはもっと良い人生を探してほしかったのです。彼女は泣きながら「貴方を愛しているので、受け入れることができる。どんなことがあっても愛している。」と言いました。
姉と兄には打ち明けましたが、母に告げる勇気はなく、母が悲しむのが 怖かったので、誰も母には言わないようにお願いしました。しかし、しばらくして母の知るところとなりました。姉は「たとえ今言わなくても、いつの日か母も知るときが来るのだから」と言いました。兄や姉は、じきに私が体調を崩して亡くなると思っていたのか、 後で知るよりは今言った方がよいと考えていたようです。母はとても悲しみ、食事も喉を通らず、眠れない日が何日も続いたようです。その後しばらくして、母は会社の社長に、私を仕事から追い出さないでほしいと懇願するために、話し合いに行きました。本当に働けなくなるまで、私の面倒を見てくれるようにお願いしたようです。 私からはいっさい頼んでおらず、母が自分で考えて行きました。もし私が仕事を辞めなければならなくなったら、もっと症状が悪くなることを母は心配しました。私にとって、仕事が人生における価値を見出してくれるものと理解していたのでしよう。いつの日か辞めさせられたら、後は死を待つだけしかないと思っていたようです。この母の愛情にとても心を打たれました。 私は仕事を続けましたが、意気消沈し、体力は目に見えて衰え、疲れやすくなりました。薬や補助栄養食品を取り、症状にあわせてケアをしていましたが、体重も減り、日和見感染も起こっていました。
会社での待遇も一変し、私は頼りにされない人間になりました。会社はいろいろな手段を使って辞めるように締め付けをしてきました。最初にされたことは、部下に私がエイズであることを公表し、みんなが知るところとなりました。 遠慮も次第になくなってきました。以前は隣の食堂へ食事に行っても、いろんな人が話しかけてきましたが、今では誰もいなく、逃げて行く人がいるだけです。食堂の主人さえも嫌悪感を表し、料理を作りたくないといった態度を取るようになりました。 次に金銭的な締め付けが始まりました。療養のために3日間の休みを申し出ると、会社は1ケ月間休むように、ただしその1ヶ月分の給料は支払わない、と言いました。そして、ある地区での会社の仕事を引きうけるように強制されました。会社は本当に私を行かせたいようだったので、最後の選択として、その仕事を引き受けることにしました。結局、従業員や金銭面での問題が出てきて、最終的には会社を辞めなければなりませんでした。 私自身が経験を通してわかったことは、エイズの恐ろしい点が、人間の体の免疫力を弱めることではなく、人間の精神をずたずたにしてしまうということです。
私たちは、例えエイズで死ななくても、事故やさまざまな病気で死ぬことには変わりありません。 しかし、エイズのように人間としての尊厳を破壊してしまう病気は他にはありません。ひどい仕打ちの上に、今まで協力して築き上げてきた会社を辞めてからは、何もせずに暇になって考え込まないようにと、仕事を探すように努力しました。しばらくの間ソーンテーオ (乗り合いトラック)の運転手をすることにしました。お金がほしかったからではありません。収入は少なく、車の賃貸料やガソリン代にも足り ないぐらいでした。それでも、人と会うために車を運転しました。一人でいることが耐えられなかったのです。それと同時に、市内の道に沿って、私の心も解き放して一緒に走らせたかったのです。心が止まってじっとしていると苦しみが増すようで怖かったのです。
次号へ続く
(バーンサバイ運営委員)
[翻訳]川口泰広(バーンサバイ運営委員)

キリストの愛を伝え、伝道をすることが願いです

ソムヌック・パンヤーケーオ(通称トム)さんと の初めての出会いは、昨年の秋でした。彼に は家がなく、お寺の軒先を借りて野宿をしてい ました。タ方から夜中まで、市場でおもちやを 売って、生計をたてていました。しかし、昨年 の11月、40°Cの高熱を出し、意識が膜臓とす る中、バイクを運転しバーンサバイまで たどり着きました。そして、すぐに病院 に入院しました。「あの状態でどうして バーンサバイまで来ることができたの か、どう考えても不思議だ」とトムさんは 言います。その時から今年の3月まで、 4ヶ月間バーンサバイで休養しましが、その間に、5度入院しました。
現在は、バーンサバイの自立支援 事業であるカード作りをして、生活して います。彼はハサミとカッターで実に 細かな作業を続け、さまざまなカードを 作り出しています。また、日本語も独学 で勉強中です。私の名前は、ソムヌック・バンヤーケ ーオと言います。4月3日に32歳になりました。
私がHIVに感染してから、10年以上が経っています。その当時、麻薬を使ったり女遊びも したので、どこから感染したのかわかりません。 この10年間にいろいろな病気の症状が出て、 死にかけたことが何度もあります。私は3人兄弟で、一番上が姉、そして兄、私の3人です。姉は少ししか勉強をすることができず、家を出て働いていました。兄も、幼い頃からアヒル料理店の主人のところに住み込み、 働きながら学校に通って勉強をしました。 子どもの頃、私の家族には問題ばかりおこっていました。父親の仕事は日雇いで、毎日 お酒を飲み、母親とケンカばかりしていました。 父は酔うと母に暴力をふるいました。 何が原因で両親がケンカしているのか知りませんでしたが、最後にはみんな私のせいになりました。それに嫌気がさし、家出をしました。記憶に間違いがなければ、最初に家出をし たのは8才の時です。路上で生活し、お金や食べ物をもらい、夜になるとタ ーペー門の周辺で寝ました。その当 時、ターペー門の周辺は今とは全く 違いました。でもすぐに同じような問 題を抱えた友達ができました。みん な、いろいろな問題から逃れて来て おり、孤児もいれば、過酷な人生を過ごしてきた子どももいました。母親が僕を探しに来て家に戻りましたが、 しばらく経つとまた同じ問題の繰り返 しでした。飽き飽きして、また家出をしましたが、 母親が探しに来ては家に戻りました。そんな暮 らしを何度も繰り返していました。 そして結局両親は離婚し、父親も母親もそれぞれ再婚しました。しかし、父親は昔のよう にお酒を飲んでいました。新しい父親も、また 同じようにお酒を飲みました。父が再婚した女性も母親も、毎日のようにケンカばかりしていました。両親が離婚後は母と一緒に暮らしていま したが、時折父親のところと母親のところを行 ったり来たりして、振り回されました。そうこうしているうちに、父親が私を引き取って育てると、母親のところに言ってきました。父親と暮らすこ とになり、ジョームトーン郡に移り、学校にも通いました。父親は再婚して、私より1才年下の男の子が一人いました。父親と暮らし始めてしばらく経つと、母親と暮らしていた頃と同じような問題が起こりました。腹違いの弟とよくケンカ をしましたが、いつも私が間違っていると怒られました。そして罰として父親に叩かれました。罰を受けた時 は、全身に痛みが残りました。父親 はもう二度と叩かないと言うのです |が、一度も約束を守ったことはあり ません。父親は日雇いの仕事をし ていましたが、タ方になると毎日酔 つばらって、いつも義理の母親とケ ンカをしていました。それが嫌で、ま た家出をしました。しばらくすると父 親が探しに来て、家に連れて帰ら れました。その繰り返しでした。家に いても幸福を感じたことは、一度も ありませんでした。 結局15才になるまで、父親と義理 の母親、腹違いの弟と一緒に暮らし ました。進学はせず、働きながら思春期を過ご しました。しかし父親と暮らしていたので、いつ も同じような問題を抱えており、友達と麻薬に 手を出すようになりました。現実から逃避した かったのです。そして私はまた家出をして、遠 く離れたバンコクを始め、いろいろな場所へ行 きました。マレーシアのガソリンスタンドでも、仕 事をしたことがあります。この時は、労働ビザが なかったため、警察に捕まり、強制送還されま した。働き始めても、どこに行っても長続きは せず、運転手、工場労働者、養殖場の魚の飼 育係などよく仕事を変わりました。短い場合は 2ケ月、長くても6ヶ月しか、続けられませんでした。何か問題にぶつかると、我慢できずに逃 げ出し、怖くなり、飽きてしまいます。30歳を過 ぎた現在、短気を直し、忍耐力をつけなけれ| ばと考えていますが。 10代の頃、私は2度家庭を持ったことがあり ます。二番目の妻との間には、子どもが2人い ます。現在男の子は12歳、女の子は8歳にな ります。しかし妻とは離婚し、その後彼女は再 婚しました。私の子どもはアメリカ人に引き取ら れ、アメリカで養育されています。遠いため、も う何年も会っていません。 28才の時、麻薬の常習で警察に逮捕 され、3ヶ月間ペンコクの刑務所で服役 しました。その後チェンマイに帰って来| ましたが、2年前体重が激減し、唆が出 て、体中できものができたため病院へ行きました。診察を受けたところ、肺に問題があり、エイズを発症したことがわ かりました。兄に麻薬を使うことをやめる決心をするように言われ、初めて自分| 自身の体のことを、考えるようになりまし た。それまでは、まったく健康など気に もしませんでしたし、注意もしませんで した。CD4が0まで下がり、抗HIV薬を昨年の11月から飲み始めましたが、1 月に肝臓に問題が出てきたため、一度 服用を中止しなければならなくなりました。そして、3月からまた飲み始めています。 今は毎日目や皮膚の色を、注意して見ていま す。以前とは違い、健康に関心を持つようになりました。 バーンサバイを退寮する際に、アパートを見つけ移りました。そして、自転車に乗って、カ ード作りの仕事をするために、毎日バーンサバ イに通っています。私は昔、絵を習ったことが ありますが、その時に勉強したことを思い出し ながら、いろいろなカードを作っています。 もしこれから5年間生きることができるならば、 絵を描いたり、カードを作ってお金をため、1 人暮らしをしている母親に、家を建ててあげたいと考えています。母は、今、部屋が1つしか ないとても小さな家で暮らしています。そして その後はギターを持って賛美歌を歌い、ビル マ、カンボジアなど世界中を回りながら、キリス トの愛について話し、伝道をすることが私の願 いです。

[翻訊]川口泰底 [文責]早川文野

マリ通信バーンサバイ2003年下半期入寮状況 - 早川文野


今年の夏は、例年に比べ非常に暑く、毎日4 0°Cを越える気温が続きました。バーンサバイ の庭には、ライチ、マンゴーなどがたわわに実 っています。仕事をしに来ているトムさんは、 高い所にのぼり、毎日のように青いマンゴーを とっています。
4月のタイ旧正月であるツンクラーンに、1年 以上前に入寮していた女性たちが、訪ねて来 てくれました。彼女たちは、日本人夫の暴力か ら逃れ、タイに帰国しました。しかし夫がナイフ を持って、実家まで押しかけるため、バーンサ ーバイに緊急避難していたのです。両親が彼女 たちのことを心配して連れに来た時も、どうなる ことか不安でした。コミュニティ全体で守り、夫 が来た時は警察がすぐに逮捕してくれるという ことで、帰りました。その後、何度も電話をかけ たのですが、「そのような人はいない」と、まつ たくとりついでくれません。一度元気であるとの 電話をもらいましたが、どうしてい いるのか心配で した。その女性たちが、来てくれたのです。初 めて会った時はまだ10代で顔に幼さが残って いましたが、今は、すっかり大人の顔になって いました。ソンクラーンのお祭りなのでチェンマイまで遊びに来たそうです。現在は夫も押しか けて来ることがなくなり、2人とも仕事を始めて いました。思いがけず再会できて、たいへんう れしいひと時でした。 さて、バーンサバイの2003年度下半期(20 03年11月〜2004年4月)の入寮者数は12 名で、女性10名、男性2名でした。相談件数 は4件です。80%は30代の方たちです。そし て、1名の女性が亡くなりました。

Dさん女性45歳
チェンマイ出身。父親は運転手、母親は食 品などを売っていました。両親はすでに死亡し ています。5人兄弟の3番目。昔から兄弟とは 疎遠でしたが、エイズになってからは、電話を 直接かけたり、訪ねて行くこともできない状態 になっています。外国に住んでいる一番上の 姉だけが気にかけてくれ、時折お金を送って きます。内縁の夫との間に26歳になる息子が いますが、窃盗と麻薬所持の罪で3年前に逮 捕され、現在服役中。健康な頃は時折面会に 行きましたが、具合が悪くなってからは会って いません。内縁の夫とは息子が2歳の頃に別れたきり、音信不通の状態です。 彼女は以前、外国で仕事をしていたことがあ ります。地方都市の食品加工工場で、数年間 働いていました。食事・住居つきで、月給が約 17,000バーツ。オーバースティで入管に捕 まり、強制送還されました。タイへ戻って来てからは、チェンマイや地方のカラオケやバーで、働いていました。そして、客が望めば売春もし ていたため、その時にHIVウイルスに感染した のではないかと、彼女は考えています。 1年ほど前唆や下痛が止まらなくなり病院 へ行きました。その時にエイズが発 症していることがわかりました。その 頃、あるNGOのスタッフと再会しまし た。以前ターペーのバーで働いてい た時、そのNGOがコンドームを無料配布するプロジェクトを始めました。 Dさんはその手伝いをして彼女と知り 合いました。体調が悪化していった 時に、借りている部屋でDさんが亡く なることを恐れた大家さんが、その人 に連絡をしました。その結果、NGO のオフィスの一室を貸してくれ、そこ で寝泊りをするようになりました。会議 などで事務所が閉まる場合、Dさんは1人になりますが、初めの頃は何で も自分でできましたので、問題はあり ませんでした。しかしだんだん体調が 悪くなってきたため、何日も1人でいることがむ ずかしくなりました。今回ツンクラーン休暇と会 議で、事務所にスタッフがいなくなるので、バ ーンサバイに入寮しました。入寮するまで、2 週間以上ほとんど食事ができず、下病も続い て、かなり衰弱していました。また左目がほとん ど見えなくなっており、脳にも影響がでていま す。Dさんが30バーツの診療券を持っている 病院へ行きましたが、入院をさせてもらえず、 帰されてきました。そして、翌日他の私立病院 へ行き、入院をしました。タイでは2001年から、 貧困層に対する30パーツ診療が始まりました。1回の診察が30パーツ(90円)で受けられ、薬も処方されます。しかし、それは決められた 病院でしか適用されません。他の病院へ行っ た場合、緊急の時以外は自費になります。この政策によって、確かに診察が受けられる人々は増えました。しかし、処方される薬や治療内 容は、やはりそれなりのものです。より良い薬 や治療を希望するならば、自分で支払わなけ ればなりません。理念はす ばらしいのですが、 予算の関係で限界があります。 抗HIV薬だけ ではなく、治療方法や薬についても、富 める者 と貧しい者の間に格差がある訳です。彼女は約3週間入院しましたが、食 雨 欲は相変わらずなく、2 ロくらいしか食 『 ベられません。彼女が住んでいるNG V oは本来エイズ関係のNGOではあり 薬 ません。かなり衰弱してきたDさんが住 だ み続けるのは、さまざまな点で困難に け なってきました。そこの大家さんもまた、 で Dさんが自分の貸家で亡くなることを な 恐れていました。バーンサバイからも、 く 遺体を出すことを認めてもらっていません。タイの大家さんは、その貸家や貸し部屋で入居者が亡くなることを恐 れ、嫌います。その上、エイズという病 気ですから、なおのこと問題は深刻で す。これはエイズ関係のNGOが、み な共通してかかえている問題です。彼 女の兄弟姉妹も誰1人、彼女を引き取ろうとす る人はいません。最終的に、バンコク近郊にあ るカトリック系の施設に入ることになりました。彼 女を見舞って、「また明日ね」と言って、病室を 出て来ました。その後急避移されることに決ま り、それが彼女との別れとなりました。この仕事 での人との出会いは、本当に一期一会です。今日会えても、明日会えるかどうかわからない ことがあります。Dさんのあの細くなった体を思 い出します。せめて、彼女が新しい場所で身も 心も安らかに過ごせるように、祈っています。そして、もう一度元気になったDさんと再会でることを願っています。

Oさん女性24歳
チェンマイ出身。父親はすでに死亡し、 母親は屋台でツムタム(パパイヤサラダ)を作らで亮っています。2人姉妹の長女。10代後半で結婚をし、女の子を出産しました。その後離婚し、子どもは夫側が引き取りました。 ある土曜日の午後、女性から電話がかかりま した。「知人でエイズの女性がいるが、家がなく 世話をする人もいないので、バーンサバイに 入って、そして病院へ連れて行ってほしい」と 言います。とにかくその人を連れて来るように 話しました。2時間後、中年の女性とやせ細っ た若い女性が来ました。顔がまったく瓜二つで す。 どう見ても母娘か姉妹にしか見えません。 もし親子とわかれば、入寮できないとでも考え たのでしようか。あくまでも知人であると言いま す。若い女性は、呼吸が苦しそうでしたので、 すぐベッドに横になり、一晩中寝続けました。 翌日、病院へ行き、入院となりました。そして看 議士の質問に、中年の女性は自分が母親で あると答えました。 Oさんの母親は、「とにかく家へは連れて帰 れない。もし大家さんに娘がエイズであること がわかれば、家を出なくてはいけない。お金が ない」と言い続けます。Oさんは地方で働いて いましたが、具合が悪くなり、バスに乗ってチェ ンマイに戻って来ました。母親はバスターミルでOさんを迎え、家へは連れていかず、一晩ホテルに泊め、翌日バーンサバイに連絡を してきたのです。 Oさんは2週間近く入院し、バーンサバイに 戻って来ました。しかし食欲がなく、下病が続 きます。また唆も出ます。そのため再入院しま した。結核に羅っていました。約1ヶ月くらい入 院し、退院する時には、バーンサバイに男性 患者が入っていたため、親戚の家に行きまし た。その数日後水癒癒にかかり、また入院となりました。HIV感染者やエイズ患者の場合、免疫力が低下していますから、一般の人よりも症 状が重症になります。Oさんも苦しそうにベッド の上に横になっていましたが、発瘍が顔から 全身にどんどん広がっていきました。Oさんの母親は、初めはOさんにさわることができず、 お見舞いに来てもただそばで立って見ている だけでした。娘をなかなか受け入れられない 母親に、カウンセリングが必要であると考え、C AMのスタッフに話し合いの時を作ってもらい ました。また娘さんを引き取れないにしても、母 親ができることはなるべくしてもらうようにしまし た。そして、彼女は毎日病院へ通い、娘さんの ケアができるようになっていきました。徐々にエ イズである娘さんを受け入れていったのです。 Oさんに接する中で、エイズに対する正しい理 解を持てるようになりました。母娘の良い関係 ができつつあった中で、12月24日、クリスマス イブの夜、Oさんは神さまの元へ召されました。 彼女の24年という短い生涯は、ほとんど苦し みの方が多かったのではないかと思われます。 出会った頃は、どこか投げやりで、とげとげし たところがありました。でも、徐々にそのとげが なくなり、顔も穏やかになっていきました。そし て生きようという意欲も生まれてきました。彼女 は元気になって体力がついてきたら、抗HIV 薬を飲むことを、最後まで希望していたのです。 Oさんが亡くなった翌朝、お母さんはバーンサ バイまで彼女の死を知らせに来ましたが、その 類を涙が伝っていました。 彼女のお葬式に、バーンサバイは全員で行 きました。親族を含め20人くらいが参列してい ました。彼女の死因について親族にはエイズと 絶対に言わないでほしいと、母親に言われま した。祭壇に飾られた写真は、赤ちゃんだった 頃の娘を抱いて、笑っています。この頃が一番 幸せだったのかもしれません。そして、彼女の 娘さんも、新しいお母さんに連れられて葬儀に 参列しました。Oさんに似た顔です。この子は 何も知らされていないそうです。赤ちゃんの時 に別れて以来一度も会っていませんでしたので、悲しい再会となりました。今年は土地購入に続き、新しい家の建設が予定されています。バーンサバイの移転後は、男女両方が入寮できますし、患者さんの意志 によって、バーンサバイでその最期を迎えることができるようになります。コミュニティに開かれ た、そして地域住民もともに歩めるバーンサバ イの活動を行っていくことを願いつつ、一歩一 歩地に足をつけて、進んで行きたいと考えて います。

(バーンサバイ:ディレクター)

チェンマイから見えて来た日本― 青木惠美子


外国で暮らしていると住んでいた時には見 えなかった日本が見えてくるということがありま す。日本で暮らしていた頃からエイズには関心 を持ち、患者さんたちと共に何かしたいと願っ ていましたが、患者さんたちに出会えるチャン スがありませんでした。どうしてなのかその時に は分かりませんでしたが、タイで暮らすようにな つて、その訳が分かりました。日本ではエイズ に対して余りにも差別がきついために、患者さ んが表面には出て来られないのです。 「日本からタイに逃げてきた患者さん」 暫く前になりますが、タイである方とお会いしました。その方はタイにある日系の会社の社 長でした。社員の1人が入院して、見舞ったと ころ、主治医より、病名はエイズだと言われまし た。エイズについて教えてほしいということです。 どの程度エイズが進行しているのか、その時は 良く分かりませんでしたので、一般的なエイズ に関する知識や情報をお伝えし、その後「病 状が落ち着かれたら、日本に帰られたらどうか。 日本の方が薬の種類も多いし、エイズの患者 には障害者手帳も出る、エイズ拠点病院が各 地にあるし、病院を紹介もできる。」とお話しま した。しかし患者さんは既に末期でその後亡く なりました。社長は彼のためにできるだけのこ とをなさり、お葬式も出されました。その社長は エイズだった社員から逃げ出すことはなさらず、 しっかり受け止めて、彼にとって一番良い道を 探されました。家族にも連絡を何度も取られま したが、お葬式が済んでからやっとお父さんが
お骨を引き取りにみえたそうです。お父さんは 彼がエイズだとは知りませんでした。後になつ て分かったことでしたが、彼は日本で治療も受 けており、障害者手帳も既に収得していました。 しかし、家族には知らせていませんでした。後 から考えてみると、彼はタイで死ぬつもりで、日 本から逃げて来ていたのだと思います。彼は 死を覚悟してタイに来たのでしょうが、タイで仕 事も与えられ、友人と共に暮らし、差別される ことも無く何年かは楽しく過ごせました。エイズ という病気は精神的要素の大きな病気です。 ストレスがなく穏やかに過ごせたなら、延命も 可能です。現に、死ぬのなら一目娘に会いた いと、歩くこともできず、車椅子で日本から帰っ て来たタイ人女性の患者さんは娘に会い、家 族に会い、日本のように周りから差別されるこ とも無く、わたしエイズなのよと言いながら、抗 HIV薬を飲んでとても元気になりました。そして 恋もしています。 その後聞いた話によるとタイには何人もの日 本人エイズ患者さんが日本から逃げるように来 ていると聞きました。既に亡くなった方も居られ て、中には家族がエイズだと聞かされて、遺骨 も取りに来ない人も居ると聞きました。それほど に日本ではエイズの患者が差別されているの です。殆どの人がエイズに対する知識が無い ため、恐れを抱き患者を差別します。中には 家族にも打ち明けられず、地下にもぐってしま っている人たちが居ます。 「エイズは生活を共にしても簡単に移る病気ではありません。」
私はエイズ患者さんたちと生活を共にして います。同じ皿から食事を共にしようと、バーン サバイにはお風呂はありませんが、あったとし て、たとえ一緒に入ろうと、トイレを共用しようと、 肌を触れようと、抱擁をしようと感染はしません。 感染は同じ注射針を使う、輸血、性交渉、胎 盤感染、産道感染、母乳による感染など、ウイ ルスを含む血液、精液、母乳が他の人の粘膜 または傷口に直接触れたとき、感染する可能 性があります。感染を防ぐためには同じ注射器 を共用しない(麻薬など)、性交渉は必ずコン ドームを使い、出血する危険があるよう な行為は避けることが肝要です。エイ ズに対する正しい知識さえあれば感染 は防げます。感染しないことが分かれ ば、差別もなくなります。HIV感染者、 またエイズ患者さんたちが安心して治 療に専念できる環境作りがとても大切 です。日本ではお金に関する面だけ が解決しています。しかし、差別を恐 れるため、保険も怖くて使えず、1ヶ月 20万もかかる治療費を家族にも内緒 にして、自分で工面しているという話も 聞きました。エイズは精神的に平安が あれば、治癒力が増します。もし差別 が無ければ、どんなに安心して治療に 専念できることでしょうか。皆が正しい 知識を持ち、差別が無くなれば、感染が防げ ます。
日本ではHIV感染者、エイズ患者が増えて います。」
今年2月半ばから1ヶ月冬から早春の日本 で過ごしました。帰国の目的はチェンマイから 見えてきた日本の状況を日本で訴えたかった からです。日本で色々見聞きして、いよいよ暗 激たる気持ちに襲われました。現在日本では 若い人たちの間で感染者がたいへん増えてい る、また中高年者では夫妻がともに発病する 人たちが増えているのだと聞きました。いわゆる先進国といわれている国ではHIV感染者の| 数は横ばいか下降しています。日本だけが例| 外です。HIV感染者の数が増えているのは貧 しい国だけです。アジアでは中国、インド、ビ ルマ、カンボジアでHIV感染者が増え続けて います。日本でHIV感染者が増えているのは もちろん経済的理由ではありません。日本で 増え続けている理由は日本人がエイズに対し て余りにも無知だからです。
「タイでは先進国並に感染者の数は横ばいです。」
タイの国が金持ちだからHIV感染者の数が 増えていない訳ではありません。10 年前に爆発的にエイズ患者が出たタ イではエイズ教育に本気で取り組み ました。小学生の低学年から性教育 を含むエイズ教育に取り組んでいま す。一般的にエイズに対する知識が 行き渡っています。感染者と一緒に 生活しても簡単に移らないことは良く 知っています。勾論全く差別が無い わけではありません。頭では分かつ ているが、できるだけ避けたいと言う 人は居ます。しかし、感染者の人た ちが料理を作って屋台で売っていて も、お客さんは来ます。商売が成り立 っています。バーンサバイのスタッフ のジャンさんはもちろん患者さんたち に理解があります。彼女は家事を専門にしてく れています。余談ですが彼女の料理は最高に 美味しいです。ジャンさんの休みのときだけパ ートで助けてくれているお手伝いさんが居ます。もちろん彼女はバーンサバイがどういう所か知って来ました。しかし、はじめのうち患者さんと 顔が合わせられず、ロも利けませんでした。ど うなることかと心配していましたが、この頃は馴 れて、患者さんと話も出来ますし、にこにこして います。日本だとこうはいかないでしょう。 タイの公立病院ではエイズの専門医は物論、 ケースワーカーもおり、相談日を決めて、相談にも応じますし、患者同士情報交換も出来ま す。またNGOが病院に入っていろんな支援も しています。日本では患者同士が顔を合わせ ることさえ恐れていると聞きました。

「日本の現状」
日本では数年前に文部省と厚生省が、エイ ズ患者が増えることに危機感を感じて、全国の 教育機関に配るため、エイズ教育のための冊 子を作りました。ところがPTAからその冊子に コンドームが出てくるという理由で強い反対が 出て、冊子は廃棄処分されました。以来文部 省がエイズ教育に本気で取り組もうとしている |という話は聞こえてきません。それどころかエイ ズ教育にはできるだけ触れたくないという空気 を感じます。私は現在の日本政府の右傾化と 関係があるだろうと感じています。今、国は日 本国を愛する人間教育こそが大切と言っています。教育基本法が変わろうとしています。エ イズ問題に触れると、どうしても人権問題に触 れなくてはなりません。差別問題に触れなくて はならなくなります。私はある小学校教師から、 自分が学校に掛け合うから、高学年の子ども たちにエイズの話をして欲しいと頼まれました。 ところが、彼女が学校に掛け合ったところ答え はNOでした。
若者の性行為の初体験が小学生の時だっ たという若者が増えているとも聞きました。中学 生、高校生の間では処女であることが恥ずかしいことだと思われ、携帯電話での出会い系 サイトで相手を探すのだと聞きました。フリーセ ックスが当り前のこととなっているのに、彼らは、コンドームは避妊の為に使うとしか考えていま せん。タイで中学生にエイズが感染するのは 何故かと質問したことがあります。その答えは 「無防備な性行為による」と返ってきました。日 本人の若者に聞かせたいです。現在のこのよ うな日本の流れの中で教育界は純潔運動を唱 えていると言います。若者が耳を傾けるのでし ようか?HIV感染者が増え続けている現在、コ ンドームの使用こそ訴えなくてはなりません。
一般的日本人はエイズ問題を他人事のように 思っていますが、ある医師は2・3年後爆発的にHIV感染者が増えるだろうと警告しています。 私は日本で保健所に行ってHIV感染をしてい るかどうか検査を受けました。最初窓口に行き、 「HIV感染をしているかどうか検査を受けたい」 と言ったところ、「そう言う心当たりがあるのです か」と聞かれました。周りにはもちろん人が居ま す。私はチェンマイでエイズ患者のためのシェ ルターで働いているので、念の為検査がしたいと答えました。もし、私がレイプされたので心配で来ていたとしたら、答えられますか?これでは多くの人が検査を諦めて逃げ出してしま います。後で何故あんな質問をするのかと聞きましたら、HIVウイルスに掛かっている危険度 が強い人は無料で検査するが、心配だけでは 有料だと聞かされました。それなら窓口で何も 話さなくてもいいようにシステムがどうなっているか、受けたい人はどうのような手続きが必要か、など声を出さなくてもスムーズに検査が受 けられるよう配慮するべきです。これが日本の 現状を象徴的に表していると思います。相手の立場に立って思いやる心がありません。もちろん差別さえなければこんな心配もいりません。
こんな話も聞きました。今、日本では感染者 の子どもというだけで、保育園や幼稚園で受け入れてくれないと言います。保育園に掛け合つてやつと受け入れられたと言う話も聞きました。いろいろな施設でHIV感染者やェイズ患者が拒否されていると言う話も聞きました。今、老人ホームでもエイズ患者が出始めていますが、受け入れてもらえないそうです。地 方の医者の多くはエイズ患者に対して差別的だと聞きました。エイズ患者が来ると他の患者 が来なくなると恐れるそうです。医者でさえ患者を拒否する、そんな日本ですから、何をか言わんですが、まず、HIV感染者、エイズ患者を受け入れる必要のある職員の教育が必要で はないでしょうか?少なくともタイでは医者や職員がHIV感染者やエイズ患者を拒否したと言う話は聞いたことがありません。

「バーンサバイの場合」
もともと「バーンサバイ」は日本にいるタイ人のHIV感染者、エイズ患者さんがタイに帰国した場合のシェルターとして立ち上げました。そ して私たちはタイ語のパンフを作り、タイ大使館、領事館、また、タイ料理店や食材店に置きました。あっという間に「バーンサバイ」は日本に いるタイ人の間で有名になりました。ところが蓋 を開けてみると、「バーンサバイ」はエイズ患者 の家だと皆が知っているから、あそこだけは行きたくないと言われていると聞かされました。私たちは慌てて、新しい「バーンサバイ」を建てて、其処はプライバシーを守るため、看板はもちろん、住所も出さずに、事務所は別の場所に置こうと運営委員会で提案しました。すると、運営委員の一人(エイズ患者)から凄く叱られました。 「バーンサバイ」は一体どんなポリシーを持っているのか?差別を助長するつもりか、「バー ンサバイ」は患者が病気を隠す必要がなく、自 曲に外にも出られて、買い物も、食事もできる。 地域にも理解され、地域の人たちも自由に入 ってきて、ボランティアもしてもらえるそんな形 でなくては駄目だときつく叱られました。日本にいるタイ人の患者さんのために「バーンサバ イ」を変えるのではなく、日本の状況こそ変えるべきなのだと深く考えさせられました。
そして新しい土地探しが始まりました。なん と理想的な土地が千坪見つかりました。ジャックフルーツ、バナナ、パパイヤ、ラムヤイ、リンチ、マンゴなど果物の樹が多くて、小鳥もたくさん居ます。何より地域の理解があります。近くに公立の病院があって、エイズ関係のNGOが入っています。また村の中にもエイズの方たちをサポートするNGOがあります。そして堂々と看板が上がっていました。歩いて行けるところに市場があります。この村にはHIV感染者や エイズ患者がたくさんいます。そのため、エイ ズに対する理解が深く、「バーンサバイ」を地 域が快く受け入れて下さいました。そして土地 の登記の時は、地域住民から信頼されている 長老さん、エイズ関係のNGOのスタッフも立会ってくれました。
「バーンサバイ」の3年目は、新しい家の建 設に向かって進みます。入寮する方たちにと って、サバイサバイ(居心地のよい)な家はどの ようなものがよいかを、考える年になりそうです。

(バーンサバイ:スタッフ)

半年を振返って ―高山晋


トムさんと知り合ってもう半年以上になり、歳が近いせいか親近感を感じる。彼の通う病院の一つは、チェンマイ市内の南、「ドイインタノ ン」というタイ最高峰の山の麓から数キロ離れた所にある。町の中心部は車で1分も走れば 通り過ぎてしまうほどあっけない。小さな商店がいくつか並んでいるだけの静かな町だ。彼が生まれ育った町であるからかどうかわからないが、この病院に行く時の彼の表情はいつもよりも明るかった。彼の過去や僕の過去を車の中でよく話した。育った環境はまったく違うが、やっている事は、大して変わらない事に気づく。 彼の通う郡立病院では感染者や患者が中心となって月に1度エイズの知識や介護の方法などを学習するミーティングが開かれている。僕も突然お邪魔をした事があるが日本では考えられない事と思う。各病院にはカウンセラーもおり日本と比べてHIV感染者やエイズ患者にとって随分と環境が整っている事を感じさせられる。
この半年以上、僕は彼とあちこちの病院に出かけて来た。そこで感じるのが、皆ではないが、国立系の病院のドクターを初めとして看護婦達の態度の悪さである。ハードが整備されてもソフト心の面は、まだまだと言った所だろうか。彼はエイズ患者であるが、もちろん薬害エイズで感染したわけではない。「官・業・医」の複合過失と言われ、500人を超える死者を出した空前の薬害事件ではあるが、誤解を恐れずに申し上げると、薬害エイズで感染した人間と、セックスや麻薬で感染した人とどれほどの違いがどあると言うのだろうか。人間である以上判断を誤る事だってあるのではないだろうか。その判断の誤りの上、自らの命をたつ者さえいる。日本は先進国の中では筆頭自殺者の多い国で年間3万人以上が自らの命をたっている。彼が感染したのは、20代前半。セックスや麻薬で感染したのは、自業自得と非難するのは簡単だが、僕の経験からしてもそう簡単にあしらえる事ではない。自業自得だよと言う言葉は、あまりに酷ではないだろうか。当たり前の日常としてタイに限らず日本でも日々行われている事なのだ。そうこのニュースレターを読んでいるあなたにも感染の可能性は、ゼロではない。
判断の誤りで感染した人たちを、神様からのバチがあたったのだとか、運が悪かったねというような対応で差別してよいものだろうか? 同じ人間ではないか? ある聖典によると、この世にはもともと差別はないのだが、無明の働きであると説き最終的には煩悩のせいであると言う。 煩悩とは悟りの実現を妨げる精神作用のすべての事だ。人間的なレベルでこの「悟り」を本当に得れるのかどうかは、わからない。修行が足りんと言われるかも知れないが、うわべだけの「悟り」は、得れたとしても聖典に書かれているような「悟り」は、人間である以上僕は不可能だと考えている。と いう事は、差別をなくすことも不可能なのだろうか。
一度、病院関係者にセックスや麻薬で感染した人たちを差別するほど、あなたがたは立派な人間なのかと問うてみたい。改めて問われて見れば、自分が正しいと言い切れる人間は、少ないのではないだろうか。確かに売買春や麻薬はやってないとしても、それですなわちエイズ患者を差別できるだけ偉いのだろうか。人間的に見れば立派な人であったとしても、神の視点から見ると人の心なんて、恨みがあり、妬みがあり、醜いもんだ。彼を責め差別できる人間など、この世に一人もいない と確信する。断っておくがすべてのタイで働く病院関係者が差別しているというわけではないので、誤解しないで頂きたい。中には、驚くほど親身に 相談に乗ってくれるドクターや看護婦だっていらっしやる。
売買春がよくない事は、誰だって知っている。実際に体を売ってる子に対して、「やめなさいよ。よくない事なんだから」なんて皆言える。「よくない事だから辞めなさいよ」といいながらきっちりコトだけは済ます、たちの悪いオヤジだっているのは事実だ。タイを訪れ出して14年、僕も夜の仕事についてる方と話す機会がある時は、辞めた方がいいよと実際言ってきた。しかし今になって少し反省している。僕は彼女達の抱えるバックグラウンドの事なんて何も考えずに言って来た無責任な発言をして来たのだ。両親や子供に月10000バ ーツ(バンコク市平均月収6000バーツ:2000年国家統計局家庭調査1バーツ約2.8円2004年5月)の仕送りをしている子だっている。それで両親や子ども達は生活している。突然辞めたら生活が成り立たなくなるのは必至だ。僕が彼女たちに金銭的な保証をしてやることも、新しい職場を紹介してやる事だって勿論出来ない。最近は、夜の仕事についてる女性に会った時も、辞めたほうがいいよと簡単に言わない事にしている。なんとかしたいけど、なんとかできずにもがいている彼女たちを追い詰める事になるのだから。 話がそれてしまったが、病院関係者が冷たい態度で接する時の、彼の胸中は察するに余りある。死へと続く赤色砂岩の1本道が彼の眼に写し出されるのか、大変落ち込んだ表情に変わる。患者の精神を追い詰めてそれでも医者かと思ってしまう。心の中でドクターや看護士を殺しまくってる自分が情けなくなる事だってある。世の光としてキリスト者としての香りを放つにはまだまだ祈りが足りないと、いつも思わされてしまう。彼も、クリスチャンで聖書の神を信じている。神は本当に救おうとされる者には、試練を与えられる。 人間の力でなんとかしてやろうともがいても、冷たいようだが無駄である。すべての決定権・主権は、天の神のみが持っている。そして人間の力ではどうしようもないのだと言う事を示されるのだ。 しかし神は信じた者には、すばらしい祝福をもって常に最善をお与えくださるという、愛と恵みに満ちた方なのだと言う事を僕も彼も知っている。
エイズという病は、確かに残酷だ。希望を持ったところでいとも簡単に39度以上の高熱によってそれを打ち砕く。普段、共に暮らす食事の時や、車に一緒に乗ってる間にも確実にまた着実にエイズウィルスは、彼の体を触んでいっている。エイズになり日々死の影が忍び寄る人生のどこが最善なのか、人間である僕や彼に今は、わからない。また人によって試練の重さが違うのもわからない。しかし天に召され神と 同じ理解が与えられたとき、神のご計画のすばらしさを実感するのだろうと確信する。 人間的に見れば苦しい彼の人生の中でも、 心に神から与えられる御霊による平安があるこ とを覚え感謝したい。彼の願いは、「キリストの愛を伝え伝道する事」とこのニュースレターにも書いてる。なんてすばらしい事でしょう。アー メン。キリスト者としての値打ちとは「死」という問題 に直面したときによく現れるのではないだろう か。自分に死がせまった時、他人の死に立ち会う時。覚えて頂きたいのは、人間的に見れば苦しい中にも、彼の心には、クリスチャンとしての特権が与えられ一時的に感情的になる部分がるとしても、心の深い所でイエス・キリストに担われているという不安があるという事。キリストの復活に預かる勝利の平安に生きているという事。キリストに自分の罪を担われている事を知る人の人生は本当に平安である。世の光として輝いて生きているとう事。福音の最高の語り手となって働かれているという事。彼が私に聖書を語るわけではないが、 誠に大きな伝道をされた。時に教職者が語る 聖書の御言葉以上に心に響く。彼に感謝また 天の父なる神様に心から感謝したい。
最後に最近、子どもを対象にしたNGO施設が多く出来てきている。詳しい経緯はわからないが、母子感染した子ども達には責任がないので、可愛そうで支援するという事を聞いたりもする。また大人に比べれば確かにすこぶる可愛い。微笑みを作るのが苦手な日本人でも子どもたちの前では自然に最高の微笑みを作る事ができる。寄附もよく集まると聞く。セックスや麻薬で感染した人達の事も今一度よく考えて頂き、引続きご支援を賜りたいと願ってやまない。

(バーンサバイ:スタッフ)

新スタッフ紹介高山晋


初めて来たのに、懐かしい。そのような思いを人は、即視感というらしい。バーンサバイに来て、ちょうどそのような気分になった。タイを初めて訪れてから13年。タイ国内のあらゆる所を旅してきた。今年の春に長年勤めた会社を退職し、しばらく好きなアシドアをまわった後、7月に天使の都バンコクにやって来た。バンコクは、今ではもう大都会となってしまい昔のような人々の微笑みは見られなくなってしまったが、バーンサバイのあるチェンマイには、昔のタイを感じる。気風のいいおばさんや歳月の長さを感じさせてくれるおじいさん。それに純粋な瞳を持った笑顔の子供たち。日本ではなかなかこのような瞳を持った子供たちに出逢える機会が少なくなってきた。普段学校が終わってから、外で思いつきり遊んでいるからだろうか。子供たちの笑顔を見ていると穏やかな気分にさせられる。バーンサバイで働くようになったきっかけは、バンコクで職を探している時、日本人の集まりで、ニュースレターの創刊号にも紹介されている溝口夏奈さんと出会った事から始まる。夏奈さんと、以前バーンサバイに入寮されていた患者さんと日本食を食べに行く機会が与えられた。その方は、諸事情で病院で薬をもらうことが出来なかった為、その後、一緒に病院へ行き薬をもらうお手伝いをさせてもらった。その頃、ちょうどディレクターが日本に一時帰国されている時で、スタッフの方からバーンサバイを手伝ってくださいというお話を頂いた。特にバンコクでの予定もなかったので、すぐ簡単な荷物をまとめ、一路チェンマイへと夜行列車に乗った。バーンサバイに着いた時、ちょうど一人の患者さんが、入院されておりスタッフの方が忙しくされている所だった。患者さんを介護するスタッフの姿は、普通の方とは違った印象を受けた。人間生まれた時に誰しもが持っている感情、一般恩恵というのかわかりませんが、苦しんでいる人や困っている人を見た時に哀れに思い助けてあげようとするその感情からの介護とは明らかに違ったように思う。神の愛をまさにこの地上において示されているように感じた。その愛に引かれ働くよう決心した。御霊による導きもあったと思う。夜患者さんやスタッフの方と、簡単な聖書の学びと祈りの時がもたれる。このような時が用いられ一人でも多くの患者さんが、神を共に賛美出来る者へと変えられていくよう、御霊による導きを祈りたい。聖書には、人にはそれぞれ神より与えられた賜物があると書いてある。自分に与えられた賜物が何であるか、またその賜物をこのバーンサバイでどう生かすかここに来て2ヶ月、試行錯誤の日々が続く。

(バーンサバイ:スタッフ)