バーンサバイニュースレター第3号


バーンサバイニュースレター第3号
 

“エイズ”知識・理解・行動・意味―同じ人間として - 二ワット・スワンパタナー


“エイズ”知識・理解・行動・意味―同じ人間としてどれ程の涙を流せば満面の笑顔
に出会えるのだろう、どれ程の悲しみを乗り越えれば幸福が訪れるのだろう、後どれ程の命が失われれば命の意味に気づくのだろう。
タイデエイズとの闘いが始まってから約20年が経ち、その間私たちは多くの悲しみや何人もの友人たちの死に直面した。それと同時に彼らの命の意味を見出そうとする彼らの力に気づかされ、学び、改めてエイズの意味を考えさせられた。
エイズは感染したら最後治療不可能な難病である。エイズになったらあとは死を、それも悲惨な死を待つだけだ。私たちは当初、エイズの恐ろしいイメージを強調して感染を防ぐといった表面的な解決をしようとした。「エイズは治らない。かかれば死ぬ」「薬物、セックス、気づけばエイズ」「セックスに溺れるな。ストップ・エイズ」
このようなあらゆる文句で人々に恐怖心を植え付ける事に成功し、社会は沈黙したがエイズを止める事は出来なかった。エイズに対する恐怖心はしだいに感染者への嫌悪、排斥、烙印、差別へと姿を変えた。エイズ・ウイルスが体内にあるだというだけの理由で。それから数年がたち、恐怖と沈黙の中で耳を澄ました時、感染者たちのささやくような声が聞こえてきた。私たちと同じ人間としての彼らの生きようとする力、存在意義を問いかけてきた。感染歴10年になる友人プラサート・デチャブン(デーン)氏が、差別され続けてきた感染者たちを代弁するかのように詩を書いて歌った。

“他の人と何が違う?同じように呼吸をしているではないか。同じ人間ではないか。同じように夢を持っているではないか。もし違うとしたら私が美しくないから。でもその下を見て欲しい。外見という覆いに隠された、貝の中の真珠のように目に見えない内面を。心の目で見なければわからないものを。"


~ビアの場合
「うちは貧しかったが家族仲がよく、両親にも愛されて幸せに育った。だから今のように両親から疎まれることは僕にとって死より残酷なことだ。死ぬなら家族に受け入れられてから死にたい。2日おきに家に手紙を書き、簡単に移る病気でないことを知らせるためにパンフレットとともに3ヶ月間送り続けた。でも誰からも返事は来なかった。4ヶ月目のある日、一通の手紙が届いた。“家へ帰っておいで。みんな心配しているから”」

~パーンの場合
「昔は何をするにも自分や家族のことをまず考え、他人のことにはあまり関心がなかった。感染してからグループに加わり、苦しんでいる人たちのことを知った。自分の苦しみを忘れて、何かできることはないかと考えた。子供にはいい人間になること、分かち合うこと、できることは自分ですることを常に言い聞かせている。いつか母である私がいなくなっても、まわりから愛され、幸せに生きていけるように。」

〜カンゲーオの場合
「カンゲーオは何十年も前から母親に機織りを教わり、シルクの糸を美しい布に織り上げることができた。織ること以外に特に何も考えたことはなかった。大人になり人生も機織りと似ていることに気づいた。糸がひきつったり、目がつまったり、それを解きながら一枚の布に仕上げていく。出来栄えは気になるが、精一杯やったのならそれでいいではないか。今、カンゲーオは子どもの将来のために機を織っている。つまったり、縮んだりしながらも、カンゲーオが織つた布の価値が失われることはないだろう。経験を積み重ね、カンゲーオはシルクの糸をしっかりと正しい位置や方向に向けて織れるようになっていくだろう。子供の織った布がいつか自分の布より美しくなることを願いながら。」

『エイズとはHIVという名の細菌でもウイルスの1つでも、単なる病気の1つでもない。エイズはある種のウイルスによって免疫不全の状態になった「人」である。私たちは人よりウイルスに注目してきた。患者よりもエイズという病気や症状について研究し、外見。体内に症状として現れるおぞましいイメージを強調い人々を恐縮させ感染しないように予防してくれれば、と願った。エイズによって人間としての体内のバランスは失われる。しかし千イズによって自分の生き方を振り返り、生きることの意味と向き合い、やがて真実に出会うのである』

セーリー・ポンピット氏が感染者の友人たちについてこのように話している。エイズが人間の合理性の上にたった非合理なものだと言うなら、それは人間が表わす嫌悪、排斥、差別、蔑視などの非合理性を反映したものだろう。上に紹介したデーン、ビア、パーン、カンゲーオの手記は「何かが変わった日から;感染者の日々、夢、笑顔、涙」という本で紹介された彼らの人生の一部分である。これは彼らが社会に自分も人間であることをただ伝え、社会が彼らの体内のHIV菌ではなく彼らの人間性を見て欲しい、エイズやエイズに対する嫌悪や差別との闘いにおいてタイ社会をエンパワーメントしたいという願いを込めて寄せたものである。社会がエイズへの恐怖心から解き放たれることを願って、このように世に出された話はまだまだある。恐怖心はエイズという病原菌だけに向けられるのではなく、差別、偏見、愛情の喪失、威信ある対等な人間関係の崩壊への恐怖でもある。
最後にピムジャイ・インタムーンという感染者の女性の言葉を紹介したい。「エイズになったことに感謝している」彼女は自分を利己的な人間から社会のために働く人間に変えるきっかけとなったエイズの意味について、多くの人々にこの言葉を伝えている。私達は知性をもって局部的ではなくエイズを捉えることができるだろうか。愛情や尊厳を持つ人間として尊敬しあい、差別や偏見を克服することができるだろうか。同じ人間として…。
ニワット・スワンパタナー(エイズネットプロジェクト責任者)[翻訊]吉田直子

わかってください - ラー・タイディ(ニックネーム:ヌイ)


ヌイさんは、今年の6月に「バーンサバイ」に入寮しました。約1ケ月間滞在した後、10年以上ヌイさんをサポートしているストリートチルドレンの支援グループの事務所の一室に帰りました。バーンサバイ入寮中に、ヌイさんは手先が器用で、また芸術的才能にも恵まれていることがわかりました。以前NGOでろうけつ染めを習ったことがありますが、ヌイさんは群を抜いて上手だったそうです。身寄りのない、しかも病気であるヌイさんの将来を考えますと、どうしても自立していく手立てを考える必要が出てきました。そこで、バーンサバイの新しい事業として、ヌイさんがクリスマスカードを作り始めました。体調のよい日は、バーンサバイに来て、朝からタ方までカードを作っています。ヌイさんの作るカードは好評で、多くの方から注文をしていただきました。来年もまた作る予定ですので、皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
ヌイさんについては、2003年11月4日付け朝日新聞タ刊「世界の鼓動」に掲載されました。『私はどこで生まれたのか記憶がありません。家の近くに森や川があったことしか覚えていません。私は5人兄弟の5番目で、本名も末っ子という意味のラーです。父は鉱山で発破をかける仕事をしていましたが、あまり働かない人でした。母は家で調味料などを売る小さなお店をやっていました。生活はとても苦しかったです。父はアルコール依存症で、いつも母に暴力をふるっていたので、私は父が嫌いでした。私はすぐ上の姉と仲がよく、姉はいつも私の世話をしてくれました。ある日、父が愛人を作り、家に帰らなくなったため、母は私と姉をつれ、兄(長男)・姉(長女)が働いているバンコクまで、歩いて行きました。母、長兄、長姉は工事現場で働き、一家の生活を支えていました。3人が仕事に出ている時に、次兄が姉に性的ないたずらをするため、耐え切れなくなった姉は、私を連れて家出をしました。それは、私が4〜5歳の時のことです。家出をした姉は、自分を映画館の中で物を売っている一家にあずけました。そして幼い自分もその仕事を手伝いました。そんなある日、映画を見に来ていた男性に、私はトイレの中でレイプされました。その男性はたびたび映画館に来ては、私をトイレの中で待ち伏せし、何度も性的暴力を受けました。私はただされるがままになっていました。そして、そんなふうに感じる自分は女性なのかもしれないと感じ、混乱していました。ある日、物売り一家の子どもたちといっしょに、映画館の隣の建物によじのぼり、中に入って遊んでいる時、建物の持ち主に見つかり、私だけが捕まってしましました。その時も、また彼に性的暴力を受けそうになりましたが、“怖い"という感情はわいてきませんでした。その後、ピサヌロークに養女に行った姉が私を迎えに来てくれました。その時、私はとてもうれしかったです。姉とともに養父母の家でしばらく暮らしましたが、私がおねしょをしたり、他の粗相をすると、姉の養父母が激しく怒りせっかんをするので、姉はいたたまれなくなり、再び私をつれて家を出ました。私たちは、保護を求めて近くの老人ホームに駆け込み、そこから、姉はバンコクにある女子のための養護施設へ送られました。私の方は、チェンマイの男子のための施設へ入寮しました。施設へ入った頃、私は6歳になっていましたが、同じ施設の大きな男の子たちからも、性的暴力を受けました。逆らってもっとひどい目に合うのが怖かったので、反抗したり先生に言いつけたりはしませんでした。そしてそのうちに、“自分は男性同士の性行為が好きなのかもしれない”と思うようになり、性行為中に体が反応したり、快感を感じられるようになっていきました。
男性を受け入れることは女性の行為だと思っていたので、“自分は女性なのだ”と思い始め、女性を見かけると“あんなふうになりたい”と考えるようになりました。
9歳になった頃、母と姉が恋しくてたまらなくなり、養護施設を脱走しました。しかし、お金が無い為ガード・ムアン・マイ市場でふらふらしていると、サムロー(荷台付き人力三輪車)の老人に出会いました。この人は自分のことを「息子」と呼び、かわいがってくれましたが、性的関係を求めるので、それに応じていました。しかし、近所の人の通報で老人が警察に逮捕され、自分はまた施設に戻りました。
そして13歳になったとき、再び友人といっしょに施設を脱走しました。駅まで走って逃げ、そこから列車の給油タンクにしがみつき、ナコンサワンまで行きました。その夜は駅でビン拾いをしている中年女性といっしょに駅で寝ました。
翌朝、その女性は姿を消していました。私は途方にくれて、1人で線路に沿って歩いていると、1組の夫婦に出会いました。その人たちは農業をしており、私を家に連れて行ってくれました。その家には自分と同じ年頃の男の子がいました。この夫婦は私をかわいがってくれましたが、おばあさんや近所の人たちは私のことを嫌い、「カラスのあずけた子」(実子ではない子、他人の子)と言われ、そこにいるのが嫌になりました。そして家を出て、道路工事の仕事をしました。しかし、肉体労働は男性の仕事で、女性である自分がする仕事ではないと思い、1ヶ月でやめました。その後知人を頼って、ナコンパトムの金の加工工場で働きました。この工場で、恋人もできました。2年間働いた後で、身分証明書を作る手続きをするため、チェンマイの養護施設に戻りました。その後、サラブリに住む姉に会いに行きましたが、会えませんでした。そして久しぶりに帰ったチェンマイの華やかさに惹かれ、チェンマイに住むことを決心しました。
運よくガソリンスタンドで働くことができましたが、住む場所がなかったので、ターペー広場で寝ていました。自分と同じ年頃の子供たちが西洋人の観光客相手に売春をするのを見ているうちに、私も売春を始めました。売春をすると1回500バーツ(約1,500円)を得ることが出来ました。それからはお金が無くなると売春をしました。その頃ターペー広場ではスーリートチルドレンの数がどんどん増え、みな生活のために売春をし、シンナーを吸っていました。20歳の時に、このターペー広場で、ストリートチルドレンの支援活動をしているNGOのスタッフに出会い、エイズについて話を聞きました。活動の一環として、希望者は無料で血液検査を受けることができることを知りました。それまでの体験を振り返ると、HIVに感染している確率が高いので、検査を受ける決心をしました。その結果はポジティブ(陽性)。「怖い」などとは思わず、「やっばり」と思いました。そして、「人間は生まれたら死ぬものだ」と自分に言い聞かせるしかありませんでした。それからは、髪をのばしてキャバレーでショーガールとして働きました。あこがれの仕事だったので、うれしくて、楽しくて、幸せでした。しかし、ショーの仕事だけでは食べていけず、シヨーが終わった後に、売春をしなければなりませんでした。仕事がきつく、ストレス発散のために、覚せい剤、シンナー、酒を覚えました。27歳になった頃、体調が悪化してエイズを発症しました。たびたび入院するようになり、退院後はストリートチルドレンの支援グループ「グルムアーサー」で暮らしていました。半年ほど前に入院をした時、川口さん(「バーンサバイ」運営委員の川口泰広氏)からバーンサバイを
紹介してもらい、退院した後入寮しました。1ヶ月間「バーンサバイ」で過ごし、元気にな|ったため「グルムアーサー」に戻りました。現在は生活するために「バーンサバイ」でグリーティングカードを作り、生活費を稼いでいます。そのお金をため、9月に待望のアパートを借りることができ、自立を始めました。体調のよい時は「バーンサバイ」に来て、グリーティングカードを作っています。カードの図案を考え、どのような物を作るか、その過程が楽しみです。でも1日中、同じ作業をしていると、少々飽きてくる事もありますが...。でも部屋に1人でいるとさみしいのでテレビを買い、来年にはバイクを持ちたいと考えているので、がんばっています。以前は仕事ができることへの喜びを感じながらも、その一方で人生へのあきらめもありました。しかし、今は少しでも長く生きたいと願っています。そして、できることなら家族を持ちたいです。私は子どもを産むことができませんが、父親、母親、そして子どもがいる、本当はそのような家庭を築きたいのです。私は、幼い時に家族が離散してしまいました。ほんの小さな時からいつも1人でした。ですから、暖かい家庭へのあこがれを強く持っています。これからもいろいろな人たちとの出会いを大切にして、前向きに生きたいと思います。』

[文責]出羽明子·早川文野

マリ通信バーンサバイ2003年上半期入寮状況 - 早川文野


1年中常夏の国でも、季節は巡ってきます。空の色、風の匂い、樹々の緑が少しずつ変化していきます。チェンマイも冬になりました。甲中の気温は32~3°Cと暑いのですが、朝タは15°C前後まで下がります。1日の中で寒暖の差が大きいため、体調を崩しやすくなります。
とくに抵抗力のないHIV感染者やエイズ患者にとっては、これからきびしい日々が続きます。寒い時期は深夜から朝にかけ気温がぐんと下がり、呼吸が苦しくなったり、吸や狭が出やすくなります。またひざやひじの関節が痛み、歩行が困難になります。免疫力のある人でしたら、風邪をひいても自然に治る治癒力を持っていますが、HIV感染者やエイズ患者は、肺炎、結核まで悪化する場合が少なくありません。とくにタイのエイズ患者は、栄養状態が良くなかつたり、医療機関へもかかれない場合が少なくありません。そのため、結核にかかる患者が多数います。バーンサバイに入寮する感染者や患者さんたちも、結核にかかっている方たちが本当に多いのです。病気についても富める国と貧しい国との差が存在します。どこの国に生まれるか、これは本人が決めることができません。あくまで偶然性の問題です。たとえば世界のHIV感染者の大部分は、アフリカやアジアに住んでいます。しかしエイズの予防・治療・ケアにかける費用の大半は、先進国が使っています。人間の生命の価値が、富める国と貧しい国では雲泥の差があるという現実があります。
さてバーンサバイの2003年度上半期(5月〜10月)の入寮者は17名、その内訳は女性10名、男性5名、男児2名でした。今期は、比較的年齢の高い入寮者が多くみえました。エイズという病気は、性行動の活発な年齢層がかかりやすいため、普通は20~30歳代に多く見られます。今までバーンサバイの入寮者もこの年齢層に集中していましたが、今期は40〜50歳代の入寮者が増えました。

Nさん(55歳)女性
18歳の時、10歳年上の木工職人の男性と結婚。4人の子どもが生まれましたが、長男と長女は交通事故で死亡しました。夫は16年前から殺人罪で服役中。初め死刑の判決
を受けましたが、減刑され終身刑になりました。
また28歳の次男も殺人未遂で、5年前から服役しています。18歳の次女は、Nさんの姉の家に同居し、高校に通っています。夫が逮捕されてからは、洗濯店のアイロンかけをしたり、妹の家の家事手伝い等で、生計を立ててきました。今年の1月頃から体調が悪くなり、病院へ行ったところ、エイズ発症を知らされました。夫が逮捕された後に知り合った恋人から、HIVに感染したのです。彼には妻子があり、最終的に別れましたが、その時にはまだHIV感染を知りませんでした。病気になったために仕事ができなくなり、借りていたアパートからも追い出されました。高校生の次女だけは姉が引き取ってくれましたが、Nさんは姉妹の夫たちからも訪問を断られるようになりました。住む所のなくなったNさんは、あるお寺が運営しているホスピスへ入りました。しかしそこが閉鎖されることになり、バーンサバイへやって来ました。入寮時には食欲がなく、疲れていましたが、日ごと食欲が出て、元気になってきました。チェンマイ近郊に住む次女と姉たちも、週末には会いに来てくれました。1ヶ月ほどして体調も良くなり、自立できる段階になり、今後の生活についてNさんと話し合いました。50歳をすぎ、その上エイズである彼女が仕事を見つけることは困難です。幸い、バンコクに住む妹さんが金銭的援助をしてくれることになり、姉たちが住む近所にアパートを見つけました。現在は、次女と再び同居することができるようになりました。先日私の誕生日に電話をくれ、久しぶりに話をしました。Nさん、次女、お姉さんたちが、代わる代わる電話に出てきました。今では自転車に乗り、通院したり買い物に行っているそうです。抗HIV薬も飲み始め、今のところ副作用もほとんどありません。受話器の向こうの声はとても元気で、張りがありました。バーンサバイに来た当初の元気のない暗い声とは、まったく別人です。バーンサバイに入り、自立をしていった方たちの元気な様子を知る時、本当にうれしくなります。その健康が1日も長く、続くように祈らざるをえません。そして、もし具合が悪くなったり、問題がおきたり、またなつかしくなった時など、いつでもバーンサバイに戻って来てほしいものです。

Wさん(31歳)女性
10代半ばで、20歳年上の男性と結婚しました。長男が生まれ、彼が生後3ヶ月の時、自ら家を出てしまいました。息子は知的障害を持っていますが、前夫の親戚が引き取り、現在も世話をしてくれています。夫と別れた後につき合った男性から、HIVに感染しました。Wさんの両親や兄弟は、チェンマイから車で6時間かかる町に住んでいますが、現在は誰ともつき合いがありません。エイズを発症する前は、前夫と親戚が経営するレストランで働いて思いましたが、具合が悪くなってからは、前夫が生活費を送金してくれていまます。今年に入り、精神的に不安定になったWさんは自殺をはかりました。幸い発見が早くて、一命はとりとめまし|たが、エイズの方が悪化してしまいました。救急車で運びこまれた病院にかなり長く入院していましたが、とうとう退院をせざるを得なくなり、ロブリーのナンプーン寺にあるHIV感染者・ェイズ患者の施設へ入ることになりました。病院からすぐロブリーへ行けないため、バーンサバイに2日間入寮することになりました。体重が60kgある大きな女性で、足腰にまったく力が入りません。ポータブルトイレを使おうと考えましたが、立ち上がることすらできないので、おむつを使うことにしました。2日間滞在する間、毎日息子さんと前夫の親戚が、彼女の好物のカオッイ(チェンマイ名物のカレー麺)や果物を持って会いに来てくれました。現在は15歳になり、Wさんより大きくなった息子さんが、Wさんの類に顔をびったりとつけている姿はほほえましく、できることならばずっとこのまま時間が止まればいいと思いました。チェンマイとロブリーはとても遠く離れています。この親子は別れたら、いつまた会えるかわかりません。2人にとって、本当に大切な時間が過ぎていきました。Wさんは3日目の早朝、ロブリーへ向けて出発しました。彼女は、バーンサバイがその前日に買ったばかりの新車に乗った初めての入寮者となりました。車の後部にマットレスをひいて、患者さんが眠れるように改造してもらいましたので、彼女は車の中で、眠りながら長い道のりを行きました。前日、Wさんがさみしくないようにと、親戚がたくさんの写真を持ってきてくれましたので、それらも持っていきました。現在、タイには大人のHIV感染者・エイズ患者が泊まれる施設が、ほんの少ししかありません。65〜100万人もいると言われている感染者の数を考えますと、絶対数が圧倒的に不足しています。バーンサバイのような短期的に住むシェルターばかりですから、期間が過ぎますと、退寮しなくてはなりません。そのため、施設を転々としているHIV感染者やエイズ患者が少なからずいます。そして、現在タイには最後の日までいられる場所は、Wさんが入ったナンプーン寺しかありません。エイズは心の持ちようで、病状がかなり異なってきます。いつも住む場所や介護人がいないという不安を持っていますと、病気が良くなりません。将来について考えようにも、生活が不安定でしたら、落ち着いて前向きに考えていくのはむずかしくなります。現在日本や欧米では、エイズが慢性病としてとらえられるようになってきました。エイズの治療法はどんどん進んでいますし。抗HIV薬も良くなってくることを考えますと、免疫障害が軽い期間が長期化します。そして一般の人々と同じように社会生活ができます。このような状況を踏まえ、今後はさまざまな形態のサポートが必要になってくるのではないでしょうか。


AIDSをよりよく知るためにその1
世界のエイズは今...HIV感染者・エイズ患者の総数(2001年現在)4,000万人。2001年に新しくHIVに感染した人々は、500万人。2001年にエイズで死亡した人々は、300万人。1日に8,000人以上がエイズで死亡し、2000年末までにエイズで亡くなった人々は、2,280万人。エイズ孤児は、1,320万人。「国連合同エイズ計画(UNAIDS)推定。」感染者・エイズ死亡者の大半、およびエイズ孤児のほとんどはサハラ砂漠以南のアフリカに住む人々である。


アジアの国別感染者数(上位10ヶ国)
1、インド3,800,000
2.中国850,000
3、タイ650,000
4、ビルマ。510,000
5、カンボジア160,000
6、ベトナム130,000
7、インドネシア120,000
8、パキスタン76,000
9、ネパール56,000
10・マレーシア41,000UN/ESCAPForumon
People'sPartnershiptoFightHIV/AIDS,2002



Yさん(41歳)女性・Pさん(29歳)男性・Mさん(5歳)男児
Yさんは山岳民族の出身です。最初の夫はビルマ人でしたが、愛人を作ったため離婚しました。2番目の夫はタイ人で、彼からHIVに感染しました。夫はすでに死亡しています。そして、Pさんとは、3年前に再婚しました。Pさんもェイズを発症しています。2番目の夫との間に、3人の子どもがいますが、次女は、現在行方不明になっています。一家はチェンライに住んで、農業に従事していました。しかしYさんとPさんの具合が悪くなり、6ヶ月前から働けなくなりました。チザンマィの知人を頼って出て来ました。しばらくその知人宅にいましたが、エイズの母子が入寮できる施設に行くことになりました。施設に入寮するまで、バーンサバイで1日だけでしたが過ごしました。Yさんはクリスチャンで、彼女の属している山岳民族の言葉の聖書を持っています。夜寝る前に聖書を読み、讃美歌を歌ってくれました。讃美歌には楽譜がなく、歌詞だけが印刷されています。旋律はきつとYさんの頭の中に、すべて入っているのでしよう。バーンサバイに入寮した翌日、Yさんと息子さんは母子寮へ移っていきました。そしてその代わりに、2人に会いに来たPさんが、バーンサバイに入寮しました。Pさんは男性なので、母子寮に泊ることができません。入寮した日は疲れていたらしく、半日眠っていました。Mちゃんは2番目の夫の子どもですが、バーンサバイに来た時は、まだHIVに感染しているかどうか、チェックをしていませんでした。母子寮に移った後、チェックをしましたが、HIVに感染していないことがわかりました。この母子寮はエイズの子どものための施設なので、たとえ母親がエイズでも、子どもが感染していなければいられません。結局、母子寮を退寮しなくてはならなくなりました。そして行き場所がないため、またバーンサバイに戻ってきました。バーンサバイの庭に、めずらしく子どもの声が響き渡りました。活発に動き回りたい年頃のMちゃんは、ボランティアのお兄さんに遊んでもらって、とても上機嫌です。人見知りをしない、誰にでもなつく子どもです。現在一家は教会の土地を借り、そこに小さな家を作りで住んでいます。両親がエイズを発症していますから、Mちゃんの将来が心配されます。両親の具合がもっと悪くなった場合、Mちゃんの養育は困難になります。10歳年上のお姉さんは遠い所に住み、まだ年齢も若すぎます。彼女がMちゃんを育てられるかどうかわかりません。またひきとって世話をしてくれる親戚もいません。Mちゃんにとって、一番良い道が開かれるように祈らざるをえません。現在、タイ政府は25,000人のエイズ患者に、抗HIV薬を無料で提供しています。そして来年からは、2倍の50,000人にその枠を拡大すると言うことです。タイのHIV感染者・エイズ患者の数を考えますと、薬を受け取れる人数はわずかです。また、対象者はかなりきびしい条件があり、それをクリアできる人は、限られます。(現在、チェンマイ市内で、対象者の数は約700人です。)
それでも、少しづつですが抗HIV薬を飲める人々が、増えることには違いありません。バーンサバイの活動も2年目に入りましたが、相変わらず試行錯誤を繰り返す日々が続いています。患者さんが入寮するたびに、新しい問題に直面します。そのたびにあたふたしつつ、勉強をさせてもらっている現状です。ただ1つ変わらないことは、入寮する感染者や患者さんが、あくまで主体であるということです。このことを忘れず、今期も働かせていただこうと考えています。
(バーンサバイ:ディレクター)

バーンサバイを開設してから4人の方を見送りました - 青木惠美子


2002年7月7日にバーンサバイを開設して以来4人の方を見送りました。

ポンティップさん
最初の入所者ポンティップが逝ってから1年がたち、9月18日に彼女の記念会をバーンサバイでしました。いつもお世話になっている「CAM」(タイキリスト教団の社会活動部門に属するエイズサポートグループ)のサナン牧師をはじめスタッフの方々、老人ホームに入っておられるポンティップのお母さんにも来て頂いて、ポンティップを偲びつつ、彼女の写真の前で、ともに礼拝を守り、彼女を徳んで語り合いました。彼女の容態が悪くなって入院させる時サナン牧師が抱いて二階から下ろしてくださり、ご自分の車で病院まで送ってくださったのでしたが、その時のことを思い起こして、「あの時、彼女は重かったな!」としみじみ肢かれました。バーンサバイで最後まで看取りたかったのに、借家からは遺体がだせないということで入院させるしかなかったのでした。その後3人の方を見送りましたが、3人とも危なくなった時に入院させ、病院で亡くなりました。それ以外の入所者はそれぞれ自宅や家族の元に帰れたか、自立できるようになり、家や部屋を借り仕事を始めている人もいます。

ペンさん
ニュースレター2号で紹介したRさんは一旦元気になって喜んでいましたのに、その後熱が出始めました。彼の名はペンさんと言います。前にも書きましたが、彼は求道中の方で熱心に聖書を読んでいました。わたしはキリスト教の牧師です。毎晩寝る前に礼拝を守り、聖書をタイ語と日本語で読み、その後辞書を片手に簡単に解き明かしました。神が私たち一人一人を愛してくださっていること、特に弱いものの側には必ず居てくださること、彼は大きくうなずいて耳を傾けてくれます。比処に来た時は疲れきった、不安に満ちた顔でしたが、彼の顔から不安が消えました。不安のどん底に居た人がイエスに出会い、全てをみ手に委ねて甲々開放され、平安を得る。苦しみの中に真の喜びが隠されていることを、わたしは患者さんの笑顔に出会う時感じさせられています。ペンはその後も熱が続き腹痛を訴えました。検査の結果は腸結核でした。そして6月15日に亡くなりました。入院していいましたが、ぺンさんの容態は悪くなる一方で、彼はとても苦しみました。彼が亡くなる前の晩8時から朝の7時半まで私が付いていました。彼は身体を横にすると唆が出て、狭が絡んで苦しみました。15分おき位にそうなって、その度に彼を右腕でお越し、狭を出させます。彼はその夜は熱も高いし、うとうととしても、直ぐ唆で目が覚め、その度に狭を出します。だから彼は殆ど寝ていません。そんな中で、私は何度も祈りまし思た。彼を試みに会わせないで下さい。苦しみを除いて下さい。しかし、あなたが最善をつくして下さっていることは信頼します。日本語で祈りました。彼はその度にアーメンと唱和します。彼は私に、彼がまだ元気だった頃に、バーンサバイで、出会った女性の場合はどうだったかと聞きました。「彼女も抗HIV薬を飲み始めた頃は1ヶ月高熱で苦しんだよ!しかし、いまは元気でしょ!あなたも1ヶ月は苦しいけど、それが乗り越えれば、元気になれるからね」と話しました。彼は大きく領きました。彼は最後まで望みを失いませんでした。横になると狭が出て苦しいので、座っている方が楽だと暫く座っていました。そして背中をさする私を気遣って、寝ていいよといいます。私は朝、ジャンさん(バーンサバイ。のタイ人スタッフ)に代わってもらうから、起きていても大丈夫だよ、朝寝るからねと答えると納得していました。朝7時半にジャンさんが来てくれて、交代しました。その日は日曜日で彼女は2時半までの勤務で、1時半に臨時スタッフの夏奈ちゃんが交代しました。たまたま、日本人の友人が介護を手伝ってくれる人を一人紹介してくれて、患者さんにも会った方が良いだろうとジャンさんが病院に案内してくれました。ちょうどその時、夏奈ちゃんが私にペンさんが亡くなったと泣いて電話をくれました。相当取り乱していましたが、その時来合わせた、友人とジャンさんの顔をみて、自分を取り戻しました。その時バーンサバイにやはりペンさんの介護を手伝ってくれていたエンさんが来てくれていて、タイの事情に疎い私は、このエンさんに頼み、すぐ病院に色んな手続きをするためこ行ってもらいました。青木さんも病院に行った方が良いだろうと友人が直ぐバーンサバイに帰って来てくれました。それで、わたしも入院費用を支払うためのお金を持ってすっ飛んで行きました。清拭は既に終わっていましたが、まだ間に合って、すぐ彼の手を組ませました。身体はまだ温かでした。夏奈ちゃんと2人で最後のお祈りをしました。彼は穏やかな顔をしていました。エンさんが何もかも取り仕切ってくれました。タイの事情がわからないので、信頼できるエンさんに全て任せました。そして翌日火葬だけの葬儀を済ませました。ジャンさんが付いていた時間、もう亡くなる一時間くらい前、ペンさんは涙を流したといいます。きっと神様から何かお知らせがあったのでしょう。彼はきれいな顔をしていました。最後まで信仰を守り、神への信頼を失いませんでした。2ケ月共に過ごしたペンさんに逝かれて、わたしは気を落としてしまいました。彼は天国に行ったのだし、もう苦しまないで済むのだと思うのですが、わたしは息子のように思っていましたので、寂しくてなりません。周りの人たちから患者の死に馴れないといけないと言われましたが、わたしは馴れた時は、この仕事を辞めるときだと思っています。



AIDSをよりよく知るためにその2
HIV感染者とエイズ患者
HIV感染者
HIV感染者は、体内にHIVウイルスを持つてはいますが、エイズを発症してはいない状態の人。HIV感染者=エイズ患者ではありません。自覚症状がない時期が長いため、ほとんどの人が気づかずに過ごし、この間にHIVを他人に感染させる可能性があります。
エイズ患者
HIVウイルスに感染すると、免疫機能が破壊されていくため、健康な状態では発病しないような病気を発病してしまいます。これらの病気を日和見感染症と呼びます。HIV感染者が日和見感染症や悪性腫瘍などにかかると、エイズ発症ということになり、エイズ患者となります。合併症は1つと限らず、いくつかかさなることがあり、症状を複雑にしています。現在は、抗HIV薬や日和見感染症の予防・治療により、エイズ発症の時期を遅らせることが可能となってきています。また一度エイズを発症しても治療により、ウイルス量を減少させ、CD4や症状を改善させることができます。



ノイさん
誰も世話する人のいない、シェルターを必要としているエイズ患者さんが、このタイにはたくさん居られます。そんな一人、バーンサパイに入所していた48歳のノイさんが7月28日亡くなりました。12人も兄弟姉妹が居るのに、入院したと知らせても見舞いにも来ず、ただ、電話だけは毎日病院にかけてきました。心配して容態をきくのではなく、彼女に生命保険をかけていて、まだ死なないのかと確認してくるのです。彼女は脳にHIVウイルスが入り、はっきりしている時間は余りなかったのですが、ある日い彼女がとてもはっきりしている時があって、付き添っていたディレクターの早川さんに「タイ人は怖いから用心するように」と言ったそうです。自分が兄弟姉妹によって生命保険に入れられていると知っていました。亡くなったと知らせても誰一人来ません。其方で火葬してくれと言います。亡くなる前の日、私が祈ると苦しい中なのに、顔中おできが一杯で、目も既におできでふさがれていましたが、穏やかな顔になりました。7月28日午後8時40分亡くなったと報せが入り、早川さんと2人で飛んで行きました。そんな時間に住宅街には、ソンテウ(乗合タクシー)やトウクトウク(3輪タクシー)が通っている訳もなく二人で病院まで20分間急いで歩きました。まだ身体は温かく手を組ませて、早川さんと2人で前夜式をしました。前日よりも顔がきれいになっていました。おできで一杯の顔が輝いて見えました。閉じられた目が微笑んでいました。苦労の多い人生でしたが、やっと苦しさから解放されて、平安を得たのでしょう!翌日CAMのスタッフとパーンサバイのスタッフ、そして病院からも2人の人が参加してくださって火葬だけの葬儀をしました。今まで、患者さんにかかる医療費はいつもバーンサバイが出していましたが、この時だけは医療費も葬儀代も家族に請求しました。私はタイに来るまで、釜が崎でバイトと移住労働者の相談窓口でボランティアをしていましたが、釜が崎のおじちゃんたちが亡くなってもお骨を引き取りに来る家族は殆ど居ません。どこの国も隅へ隅へと追いやられている人たちが居るのです。誰も世話する人がいない患者さんたちと家族として、ここで暮らすのが今の私の喜びです。「バーンサバイ」とは「居心地よい家」という意味ですが、患者さんたちが私に生きる喜びをプレゼントしてくださいます。どん底を経験した人たちは真の優しさを隠し持つています。彼らが時々見せてくれる笑顔は本当に輝いています。

ジャンヌットさん
入院していた患者ジャンヌットが9月4日朝早く亡くなりました。彼が亡くなる前の日、わたしは朝6時から付き添っていて、お昼に早川さんとバトンタッチする時に、明日朝6時に来るからね。メー(お母さん)は家で、仕事があるから、帰っていいかと聞きましたら、いつもは分かった。ありがとう、と言いますのに、その日はどうしても納得してくれませんでした。早川さんが4時まで看てくれて、4時から、その時は臨時に助けてくれていた、今はバーンサバイのスタッフ高山晋さんが8時まで付いてくれ、8時からはプロの介護人に頼んでありました。始めは毎晩私が付いていましたが、体力的に限界なので、プロの人を夜だけ頼みました。そして、3晩目に亡くなったと朝の3時に電話が入り、高山さんにオートバイに乗せて頂き駆けつけました。ジャンヌットはカトリックの信者さんですが、私はカトリックの祈祷書は持っていなくて、せめて、私が持っていたカトリックに近い聖公会の祈祷書に従って、高山さんと二人で前夜式をしました。亡くなった前日サナン牧師も聖書を読んで御祈りしてくださり、たまたま、訪れてくださった病院の患者さんを慰問しておられるキリスト教の牧師と信者さんたちグループも聖書を読んで御祈りしてくださいました。その後これもたまたま、友人の聖公会の牧師夫妻が日本から来て、病人を見舞ってくれ、牧師にお祈りをして頂き、2人は暫く私の介護を手伝ってくれました。略血で肺に血が溜まっているので、自分で血を吐き出す力がなく、たえず、口の中に溜まる血をティッシュで拭き取っていた時だったので、足や背中を擦ってやりたくとも、出来ずにいましたが、彼らが擦ってくれました。短い時間でしたが、婿しかったようで、ジャンヌットは微笑んでいました。亡くなる前の日、あんなにわたしが帰るのを嫌がったのに、せめてその夜、付いていてやれば良かったと悔やまれてなりません。エイズ、肺結核、腸に腫瘍、その上目が見えなくなっていました。最後は略血を繰り返し、苦しみました。これで、やっと楽になったのだと思うのですが、最後に側に居てやれなかったことが、悔やまれます。ごめんなさいねジャンヌット!火葬だけの葬儀でしたが、ジャンヌットの妹さんもバンコクから出て来てくれて、サナン牧師に司式をして頂きキリスト教の葬儀が出せました。妹さんが連れてきたジャンヌットの姪、1歳の女の子がジャンヌットと瓜二つで、私たちを慰めてくれました。ペンもジャンヌットも結核でした。エイズ患者で結核を持っているか、またはリンパ腺が腫れていると抗HIV薬が飲めません。ペンさんは腸結核でしたが、腸結核は発見の難しい病気で、始め結核は無いと診断されていたため、抗HIV薬を飲み始めていました。しかし、その後お腹が痛いと言い初めて、熱も高く再検査したところ腸結核だと分かりました。ノイさんは抗HIV薬を飲んだ経験がありますが、副作用がきつくて途中で飲むのを断念してしまいました。バーンサバイに入所した患者さんで、この亡くなった4人以外の患者さんは体調を整えてから、抗HIV薬を飲み、今も病気と戦いながらも、それぞれ自立が出来ています。抗HIV薬は飲み出したら生涯飲み続ける必要があります。途中で止めると、病状がさらに悪化します。タイの国ではこの抗HIV薬を貧しい患者さんに無料で出していますが、申請してもなかなか番が廻ってきません。



AIDSをよりよく知るためにその3
ウインドウ期間(ウインドウビリオド)
HIVに感染した後、体内にHIV抗体ができるまで平均6〜8週間、遅い場合には12週間かかります。この間に保健所や病院で抗体検査を受けても、正しい結果がでません。そのため検査を受ける場合は、可能性があってから3ヶ月後にこの期間をウインドウ期間(ウインドウビリオド)と呼びます。この間にも、血液、精液、腔分泌液を介してHTVが感染する可能性があります。
また感染の初期症状として、風邪に似た症状が出る人もいます。



申請者の50%の人がウェイティングだと言います。バーンサバイでは一旦抗HIV薬を出した患者さんには、その必要がある限り、出し続ける覚悟です。タイにあるホスピスでは、入っている殆どの患者さんが結核に羅っていると聞いています。エイズは免疫力が無くなる病気ですから、近くに結核患者がいると一溜まりも無く結核が移ってしまいます。風邪を引いても直ぐ肺炎までなりかねません。エイズの患者さんは生活にとても注意が必要です。バーンサバイには、患者さん用の部屋が1つしかありません。男性が入ると、男性だけ、女性が入ると女性だけしか受け入れられません。いま、わたしたちは広い土地を探しています。病院から近くて、またある程度生活に便利な場所、そして、何よりもエイズに理解のあるコミュニティーが必要です。広い土地を探しているのは、どうしても男性患者さんの部屋、女性患者さんの部屋、また自立できるようになっても家のない人のための家、そしてホスピス、また結核に羅っている患者さんのための家、その他、自立できる患者さん用の作業所、スタッフや日本からボランティアが住める家、これらの家が建てられるだけの広い土地を探しています。日本に・比べて、よっぽどエイズ患者に理解のあるこのタイでもまだまだ差別が色濃く残っています。また貧しさの為に病気をおして危ない仕事をしている人も少なくありません。先日もビルマとタイの国境の町メーサイで、一目でエイズ患者と分かる骨と皮にやせ細った人が麻薬を売っていたと聞きました。そんな社会の隅に隅に追いやられているエイズ患者と共に生き、また共に差別と戦っていくためにも、バーンサバイの働きを大切にしていきたいと切に願っています。社会には色んな差別がありますが、どの人にとっても差別の無い社会が、もっとも住み良い社会です。それぞれの人が社会の隅に追いやられている小さく弱い人の側に立って、社会を作り変えていく時、真の平和が生まれます。(バーンサバイ:スタッフ)

新スタッフ紹介 - ジラポーン・ターイガーム


まず始めに私の自己紹介をさせていただきます。名前はジラーポーン(名)=ターイガーム(姓)、ニックネームをジャンといいます。夫、中学生の長女、幼稚園児の次女の4人家族です。夫はツンテウ(乗り合いタクシー)の運転手をしており、1日中チェンマイの街中を走っています。私の家はバーンサバイから20kmの所にあり、毎朝夫の運転するツンテウに乗って、仕事にやってきます。私は幼い頃から、女性も仕事を持って自立した方が良いと考えていましたので、学校を卒業すると、チェンマイに出て来ました。当時、私の田舎では、女の子が村を出て都会に出るのは、親に売られ売春をするためだと考えられていました。そのため近所の人たちは、私の父も私を売ったと思いました。実際、近所の女の子たちは、チェンマイやバンコクの売春宿に売られていました。私は田舎を出て以来、ずっと働き続けています。働くことが大好きなので、これからも仕事を続けたいと考えています。
私がバーンサバイに初めて仕事に来た日、HIVに感染したりエイズを発症したタイ人のために働いているスタッフに会い、このような日本人がいることに感動し、うれしく感じました。バーンサバイを利用する方々は誰もが、食事や寝るところ、医療費などの面で、心のこもったサポートを受けることができます。日本人スタッフは、とても献身的に働いています。たとえ同じタイ人であっても、感染者に対する偏見から、まだまだ多くの人たちがバーンサバイの日本人スタッフのように、感染者のために働けないのが現状です。私はバーンサバイで掃除や食事作り、時には入院患者の介護を手伝っていますが、日本人スタッフをはじめとして、支援していただいているすべての方々に、お世話になったHIV感染者やェイズ患者に代わってお礼を申し上げます。感染者や患者さんが元気になり、社会の中で幸せに暮らしていくために、自立を目指して働くことができる機会を与えていただいたことに感謝しています。エイズは治療が難しく、社会から嫌悪されてきた病気ですが、バーンサバイで得たものは、HIV感染者や患者にとって素晴らしい機会になっています。私自身、感染者や患者の人たちのお手伝いができて、とてもうれしく感じています。金銭的な面では何もできませんが、今後もここで一生懸命働いていきたいと思います。(バーンサバイ:スタッフ)
[翻訳]川口康広(バーンサバイ運営委員)

新スタッフ紹介高山晋


初めて来たのに、懐かしい。そのような思いを人は、即視感というらしい。バーンサバイに来て、ちょうどそのような気分になった。タイを初めて訪れてから13年。タイ国内のあらゆる所を旅してきた。今年の春に長年勤めた会社を退職し、しばらく好きなアシドアをまわった後、7月に天使の都バンコクにやって来た。バンコクは、今ではもう大都会となってしまい昔のような人々の微笑みは見られなくなってしまったが、バーンサバイのあるチェンマイには、昔のタイを感じる。気風のいいおばさんや歳月の長さを感じさせてくれるおじいさん。それに純粋な瞳を持った笑顔の子供たち。日本ではなかなかこのような瞳を持った子供たちに出逢える機会が少なくなってきた。普段学校が終わってから、外で思いつきり遊んでいるからだろうか。子供たちの笑顔を見ていると穏やかな気分にさせられる。バーンサバイで働くようになったきっかけは、バンコクで職を探している時、日本人の集まりで、ニュースレターの創刊号にも紹介されている溝口夏奈さんと出会った事から始まる。夏奈さんと、以前バーンサバイに入寮されていた患者さんと日本食を食べに行く機会が与えられた。その方は、諸事情で病院で薬をもらうことが出来なかった為、その後、一緒に病院へ行き薬をもらうお手伝いをさせてもらった。その頃、ちょうどディレクターが日本に一時帰国されている時で、スタッフの方からバーンサバイを手伝ってくださいというお話を頂いた。特にバンコクでの予定もなかったので、すぐ簡単な荷物をまとめ、一路チェンマイへと夜行列車に乗った。バーンサバイに着いた時、ちょうど一人の患者さんが、入院されておりスタッフの方が忙しくされている所だった。患者さんを介護するスタッフの姿は、普通の方とは違った印象を受けた。人間生まれた時に誰しもが持っている感情、一般恩恵というのかわかりませんが、苦しんでいる人や困っている人を見た時に哀れに思い助けてあげようとするその感情からの介護とは明らかに違ったように思う。神の愛をまさにこの地上において示されているように感じた。その愛に引かれ働くよう決心した。御霊による導きもあったと思う。夜患者さんやスタッフの方と、簡単な聖書の学びと祈りの時がもたれる。このような時が用いられ一人でも多くの患者さんが、神を共に賛美出来る者へと変えられていくよう、御霊による導きを祈りたい。聖書には、人にはそれぞれ神より与えられた賜物があると書いてある。自分に与えられた賜物が何であるか、またその賜物をこのバーンサバイでどう生かすかここに来て2ヶ月、試行錯誤の日々が続く。
(バーンサバイ:スタッフ)