バーンサバイニュースレター創刊号


バーンサバイニュースレター創刊号
 

「バーンサバイ」への道 - 早川文野


2002年7月7日、七タの日、「バーンサバイ」を開設しました。私と自由メソヂスト教団の青木恵美子牧師は、10数年前に日本キリスト教婦人癒風会が設立した「女性の家HELP」というシェルターで働いていました。当時は移住労働者数が増加し、ピークを迎えた時期でしたので、「HELP」に駆け込んでくる外国人女性の80%がタイ人でした。そして90年代に入り、HIV感染者・エイズ患者の女性が入寮するようになりました。タイ国内でもまだエイズ関係のNG0が少なく、過酷な病気を抱えて帰国する女性たちの生活が、気がかりでした。帰国後病院で治療をうけることができるか、差別や偏見に苦しむのではないかなど、とても心配でした。そして、いつの日か、日本からの帰国者をタイでサポートさせてもらえたらと考えていたのです。
その後、私たちは「HELP」をやめ、青木牧師は大阪で移住労働者の問題にかかわり、私は北海道で両親の介護をしていました。そして6年前に、3ヶ月間チェンマイの「CCT(タイキリスト教教団)AIDS Ministry(CAM)」でお世話になり、エイズについてCAMや他のNGOの活動を学ぶためにコーディネートをしてもらいました。「CAM」はタイキリスト教教団の社会活動部門に属するグループで、チェンマイを中心とした北タイで10年以上、HIV感染者・エイズ患者のサポートをしています。タイでは基本的に感染者や患者は家庭で介護し、地域やNGO、保健所などの公的機関がサポートするという考え方でケアを行っています。そのため「CAM」の仕事も、家庭訪問をして本人および家族のカウンセリングを行うことが中心になっています。現在も、「バーンサバイ」は「CAM」の代表者サナン牧師に相談にのっていただき、活動を進めています。サナン牧師はHIV感染者・エイズ患者からたいへん信頼されている方です。サナン牧師と他の「CAM」スタッフによる「バーンサバイ」の入寮者へのカウンセリング、
また毎週火曜日「CAM」で行われる無料診察も受けられます。まだ私たちはタイの生活習慣、文化、タイ人の考え方などわからないことがたくさんありますので、「CAM」で学ばせてもらっています。日本人である私たちがこのタイに根づいた活動をしていくためには、タイの組織である「CAM」とともに活動を進めていく必要があります。「HELP」でのタイ女性との出会い、6年前のチェンマイでの経験、青木牧師の大阪での移住労働者とのかかわり、これらすべて「バーンサバイ」へと繋がってきました。私たち自身その時々にはまったく意識していませんでしたが、神が用意して下さった道だったように思います。
「バーンサバイ」利用状況
「バーンサバイ」が開設して5ヶ月がたちました。この間の利用状況は以下の通りです。
入寮ケース…4名
日本からの帰国者…1名
チェンマイおよび周辺地域の居住者…2名
ボリビアからエイズ会議に出席したHIV感染者…1名

※日本からの帰国者に関しては帰国前から、彼女のサポートをしていたNGO「女性の家サーラー」と連絡をとっていました。
※国内の2名はCAMの依頼で入寮。

性別…全員女性
平均年齢…33歳
感染経路…全員夫や恋人から感染

日本からの帰国者に関しては、滞日年数が10数年以上の場合、生活様式や物の考え方が半ば日本化し、帰国後タイの生活に戻ることがむずかしい傾向が見られます。また、直接肉親の元に帰ることができたとしても、長い間家族と離れているため、その絆を再び築いていかなくてはなりません。帰国当初は再会のなつかしさやうれしさで、問題がありませんが、時間がたつにつれ、軸轢がうまれてきます。「バーンサバイ」に入寮した女性の場合も、家族と互いに冷却期間をおくことが必要でした。
また、エイズに関する医療や社会福祉に関する情報、病気に対する知識なども、あまり持っていません。これらの情報を知っているかどうかで、状況はかなり違ってきます。本人とその家族をも含めて精神的に支え、情報を提供し、問題を解決していくサポートが必要になってきます。また、タイにおいて家庭介護が基本であっても、どうしてもそれが無理な状況におかれている人々がいます。住んでいる村が閉鎖的でHIV感染者・エイズ患者を受け入れられない、家族が介護を拒否する、家族がいない等、さまざまな理由があります。たとえば現在入寮中の女性は、10年前にHIVに感染し、3ヶ月前にエイズを発症しました。日々衰弱していくため、抗HIV薬を緊急に服用することになりましたが、薬の副作用には個人差があります。彼女は一人暮らしですから、もし副作用が強かった場合、ケアをする人がいません。それで、「バーンサバイ」に入寮しました。初めは吐き気、全身の儀怠感、めまい、筋肉痛、食欲不振、頭痛などの症状が出て、かなり苦しみました。今は良くなってきており、落ち着きました。「バーンサバイ」のような一時的に住むシェルターは、入寮者のそれぞれの事情により、利用の仕方が異なります。重症の末期患者にとってはホスピス的役割をすることになりますし、元気なHIV感染者にとっては次の生活への準備をする場所として機能することになります。いかにして1人1人の異なるニーズにこたえていくか柔軟な対応が要求されます。入寮者の方たちと「バーンサバイ」でともにすごす中で、哀しみ、死に対する恐れ、絶望、生への希望などさまざまな感情が、伝わってきます。この家が、ほんとうに「心休まる平安な家」になるように、試行錯誤の日々です。

相談ケース
日本のNGOのケース…2件
エイズ患者の義妹(日本在住)からのケース…1件
タイ在住患者本人からのケース…1件


※本人の義妹からの電話は日本からかかり、大使館においてあるパンフレットで「バーンサバイ」を知ったそうです。タイ国内の2ケースの相談内容は、夫が先に亡くなって母子が残り、経済的困窮や、本人と子どものケアを誰がするかなど、共通する問題を持っています。

日本のNGOからの相談は、重症のエイズ患者の女性に関するものです。10年以上日本に住んでおり、日本人男性と同居しています。パスポート、ビザがなく、国民登録証もすでに有効期限が切れています。同居している男性は彼女のケアをする気持ちがあるのですが、彼女が超過滞在のため、健康保健に入れません。多額の医療費がかかるため、帰国を考えたようです。故郷には頼れる肉親がすでになく、彼女の出身地には「バーンサバイ」のようなシェルターがあるかとの問い合わせでしたので、調べたところ、そこにはお寺が作ったホスピスしかありませんでした。その間に、男性が働いている会社から、もし外国人登録ができれば、彼の保健に入れてくれると言われたため、国民登録証の更新が必要になりました。「CAM」のスタッフと私が、彼女の出身県まで行くことにしました。県庁の国民登録係で調べましたら、日本に来る前にバンコクへ転出しているため、出身地では更新できないことがわかりました。係の人から、出身の村まで行つてみてはどうかと言われたため、村役場まで行きました。事情を説明し、住民登録証を出してもらいました。それを見ると、両親がすでに離婚をしていることがわかりました。確かに、帰ってきても行き場所がありません。住民登録証を日本へ送り、現在手続きをしている最中です。日本で外国人女性の帰国のサポートをしている時に、帰国後の状況がわからず、帰しつばなしのような感覚が、つねにありました。タイで仕事をして、その後の状況がわかるようになりました。チェンマイで「バーンサバイ」を開設したことで、日本のNGOや関係機関といろいろな形の協力ができるようになりました。もう1つの相談は、「女性の家HELP」からのものです。2人の女性が暴力から逃れて、HELPに入寮しています。彼女達は帰国したいのですが、暴力をふるった本人が実家まで探しに来ているため、危険で家には帰れません。|私が10月一時帰国した際、「HELP」を訪ねました。その時に会った女性たちで、私のことを覚えていてくれました。2人が「バーンサバイ」に行きたいと言っているとのことで、HIV感染者・エイズ患者ではありませんが、緊急性があるために引き受けることになりました。ここはエイズの人々を中心にケアをする場所ですから、エイズ患者と同室で生活してもらわなければなりません。エイズについて十分に理解してもらエイズで亡くなっていることがわかりました。それでしたら、患者や家族の気持ちが理解できます。現在1名の患者が入寮していますので、ちょうどよい話し相手になってくれることと思います。彼女達は私たちのタイ語の不足を補ってくれる存在です。2人には少し休養してもらい、今後の生活について話し合う予定です。「HELP」での2人との短い出会いが、「バーンサバイ」に彼女達をつなげてくれました。一つ一つの出会いに意味があり、神がそなえて下さったものです。

「バーンサバイ」への道 - 早川文野


2002年11月22日〜27日まで、アジアキリスト教協議会主催のエイズ会議がチェンライで行われました。この会議で、タイの状況が報告されましたので、紹介します。2001年現在、タイのHIV感染者は670,000人。死亡者は55,000人。タイで1人目のエイズ患者が出てから現在までに、死亡者を含め100万人が感染しています。現在、タイの感染率は横ばい状態で、爆発的な感染は止まりました。妊婦、21歳の男性(徴兵の時に血液検査を行うため、HIV感染がわかります)、およびセックスワーカーの感染率は下がっていますが、麻薬常習者や10代の若者の感染率は増加する傾向にありますので、楽観視はできません。近年タイでは親をエイズで失った子どもたちが深刻な問題に直面しています。タイには290,200人のエイズ孤児がいます。その子どもたちが学校から拒否され、就学できないという問題がおこっています。たとえ、子どもは感染していなくても教師や他の生徒の親から拒否されたり、学校で“エイズの子"といじめの対象にされます。また、親を失った後、祖父母や親戚に育てられる場合が多いのですが、エイズに対する偏見、愛情や将来への希望の欠如などから、麻薬を使ったり、売春をする傾向があり、弁護士会がエイズ孤児の人権を守るために活動をしていると報告されました。
タイでは、HIV感染を防止するため、コミュニティ、職場、学校などでエイズ教育を熱心に行ってきました。その結果、HIV感染者やエイズ患者に対する偏見や差別が少しづつ少なくなってはきていますが、越えなくてはならない壁はまだまだ厚いことを痛感しています。「バーンサバイ」の最初の入寮者を、私たちは最後の日までケアするつもりでしたが、大家さんにこの家から遺体を出すことに同意していただけず、結局病院に入院せざるをえませんでした。患者自身も私たちも、この「バーンサバイ」で最後を迎える決心でしたのに、それがかないませんでした。そのため、今借りている家の契約(3年)が切れる時までに、新しい場所を探し、家を建てることを決めました。そのために建築費用を調達しなくてはなりません。しかし、最初の患者さんを最後までみとることができなかった時の無念さが忘れられません。現在、新しい場所をサナン牧師が探して下さっています。家主、地主、近隣住民の理解を得ることはむずかしく、簡単には見つかりませんが、きっと一番いい場所を神が与えて下さると、信じています。(バーンサバイディレクター)

樹々の緑には島の声が良く似合う! - 青木惠美子


最近、チェンマイは冬に入りました。とは言っても昼間は32度まであがりますが、空気が乾燥しているので、木陰は32度なんて嘘のように心地よいです。特に朝タは20度くらいまで温度が下がり、爽やかです。タイ語では「エーンサバイ」(心地よい冷たさ)と言います。朝お茶を飲みながら、庭の樹々を眺め、小鳥の声-を聞くのは最高です。チェンマイの小鳥は天才かもしれません。今まで、聞いた小鳥の声の中で、1番きれいな声です。
「風がユサユサ歩いてくる、緑の上をユサユサ、樹から樹へユサユサ歩いてくる。ピッピ、ピーヒョロ、チィチィ、チチ、チチ、ピーポロイ、ピーヒョロロ。ヒュウウ!きれいな澄んだ声で小鳥が声を競っている!樹々の緑には鳥の声が良く似合う!」賛沢な時間です。生きているってこんなにも美しい時間が持てるのですね!庭にはリスが遊んでいますし、茶色の羽と黒の身体の大きな鳥が餌を探しています。バーンサバイはタイスタイルの古い高床式の家で、庭が広くマンゴ、バナナ、その他色んな果物の樹やジャスミンの花、また名も知らぬ花も咲いています。マンゴもバナナも凄く美味しいのですよ!この間、患者さんが寛げるために、高床の下にハンモックを釣りました。側に紐もついていて、ブランコのように揺らすことも出来ます。さて、バーンサバイでの心に残る出会いをご紹介しましょう。

1.10歳の女の子
七タさまの日に「バーンサバイ」はオープン|しました。先ずは、お世話になっているNGO「CAM」でタイのエイズの状況を勉強させていただくことになり、仕事始めは10歳のエイズに確った女の子のお葬式に参列することだった
のです。お葬式といっても、4日間も続きました。お金持ちだと直ぐその日にでも茶昆に付せるのですが、貧しい人は順番があって待たなくてはならず、4日目の木曜日に茶昆に付すことになりました。お金持ちは直ぐ茶昆に付してもお葬式は何日も続きます。亡くなった女の子の両親はすでに亡くなり、おばあちゃんに育てられていました。1週間入院をし、良くなって土曜日に退院してきたのでしたが、日曜日に急に悪くなって亡くなりました。月曜日から学校に戻るのを、制服や学用品を揃えて、楽しみにしていたといいます。写真の女の子はつぶらな目で、笑っています。おばあちゃんは一人になってしまったと泣いておられました。茶昆に付された日、村の先にある火葬場まで参加者全員で飾られた荷車に載せられた棺桶を2本のロープで引っ張って行きました。日差しのきつい暑い日でした。冷たい水を配ってくれた真っ白な制服を着た同級生たちの姿が今もまぶたに残っています

2.ポーン ティップさん
「バーンサバイ」では、6月初めから末期のエイズ患者で結核にも冒されている女性が、今年3月に私がボランティアをしていた、ホスピス「カメリアン」より移って来ました。彼女は元々チェンマイの人で、老人ホームに入っているお母さんに会いたいためです。しかし、チェンマイには家も、看病してくれる人もいません。バーンサバイに来て、一時は大分良くなり、庭で散歩もできたのですが、その後、日毎に悪くなり、高熱が続き、下痴もしています。介護のために何の用意もなかった私たちは、いろいろ苦労しながら、必要なものを揃えました。尾篭な話で恐縮ですが、彼女は始めの内はトイレにも行けましたが、直ぐ、歩くのが困難になり、ポータブルトイレを買いました。形は立派な椅子なのですが、椅子の下に針金で細工して、日本にもある、オマルが差し込まれています。オマルと座る間が空き過ぎて、下痴をしているので、回りに汚物が飛び散ります。ビニールを椅子に巻くなど、いろいろ工夫しましたが、うまくいきません。それに、オマルですから、1回づつ洗わなくてはなりません。夜中镜に様子を見に行き、オマルを取り外して、洗おうとしたところ、ガタガタ音がするので、眠れないと彼女から苦情が出ました。それはそうですよね!それで、高友人にお願いして、日本製のポータブルトイレを頂き、スタディーツアーに来られたアジア国際夏期学校の皆様に運んでいただきました。その時には消毒用のハイターや使い捨てゴム手袋、アイスノンまで、介護用品いろいろ運んででいただきました。このポータブルトイレを1日千秋の思いで待ちました。彼女が必要な時だけに部屋に入るようにナースコールもつけました。その他いろいろ、日本からのお客さんに介護用品を運んでいただきました。やはり日本製が1番便利で、患者にとっても介護する者にとっても、使いよく作られています。この頃ではだんだんとタイの事情も飲み込めて、消毒薬などは良いものも発見できました。最初に重症患者をお預かりしたお陰で、未だにどれも、これも重宝しています。彼女はポータブルトイレにも座れなくなり、パンパースを使うようになりました。最後にはナースコールさえ押されなくなり、本人の希望もあって比処で看取らせて頂けないかと、お世話になっているCAMのサナン牧師に、家主さんに交渉していただきましたが、家族なら自宅から遺体を出してもいいのだが、例え貸している家でも他人の遺体は出せないと云います。これはタイの風習で、私の日本人の友人も借りた家の家賃が大変安かったのですが、これは以前其処を借りていた人が亡くなった為でした。彼女も入った時は知らなかったのですが、近所の方と付き合うようになって、分かったことです。彼女が入る前に何人かのタイ人が借りたそうですが、遺体が出たと分かると即、家を移ったそうです。近所の人たちも家族が亡くなるのは受け入れますが、他人が亡くなると、酷く恐れるようです。ましてエイズ患者だと分かってしまうと近所から苦情が出るでしょう。ということで、ポンティップさんは即入院することになりました。サナン牧師もそういう風習は100もご存知でしたが、バーンサバイの家主はとても理解がある人で、エイズ関係のNGOが比処を使うのをの喜んでくださっていました。だからサナン牧師もひょっとしたら受け入れてくれるのではと、期待されたのですが、家主さんは近所のことを気になさったようです。サナン牧師は涙を浮かべて「駄目だった」と帰ってこられ、即自ら、彼女を抱きかかえて、車で、キリスト教系の病院に入院させてくださいました。病院では直ぐに、点満を打ってくださり、輸血もしていただき、2日後には彼女が籍を置いている地区の公立病院に移りました。籍のある地区の病院でしたら、6年以上その地区に籍を置いていれば貧しい人は1日30バーツ診療という保険が受けられ、入院も出来ます。最初に入った病院では2日間に12,000バーツ(36,000円)かかりました。(サナン牧師が交渉してくださって半額にまけていただきまし1)彼女がいよいよ危ないという報せが入ってディレクターの早川さんと飛んで行きました。管睡状態で、暫くすると目が開いたのですが、既にわたしたちのことは分かりません。唇が酷く荒れて血が滲んでいます。そばにあったワセリンを唇に塗ると、少し痛みが和らいだのか、彼女は目をつぶったままで、うっすらと微笑みました。美しい顔でした。私は神が共に比処に居られると強く感じました。彼女の美しい笑顔は彼女から私たちへの最高のプレゼントでした。
彼女はまだ27歳の若さでした。「バーンサバイ」に居る間に会いたかったお母さんが2度面会に来て下さったし、最後には遠く離れて働いていた恋人も駆けつけてくれて、病院では付き添ってくれました。彼女はどんなにか2人にあえて嬉しかったと思います。

3.日本から帰国したAさん
Aさんは日本にいる時一度は自殺まで考えましたが、娘さんに会いたい一心でタイに帰る決心をしました。始めタイ航空で帰る予定でしたが、いざ搭乗する際になって、何度も皮膚の状態を聞かれ、医師の診断書も要求され、その挙句搭乗拒否されました。急遽日本航空に乗り換えることになりました。日本で彼女が暮らしていたアパートの親切な家主さんが彼女のために30万円出してくれました。その内9万3千円は急遽乗り換えた日本航空のチケット代に消えました。Aさんは免疫力がとても低下していて、疲れが酷く歩くことも出来ません。飛行機の中では随分苦しかったようです。看護婦と紹介された二人のタイ人は実はそうではなく、Aさんが苦しんでいるのを見ても2人はただおたおたするばかりでした。バンコクのドンムアン空港に着いた時、歩けないAさんは空港内のタイ人のスタッフに抱えられて、車椅子に乗りました。その事がとても婿しかったAさんはバーツを持っていなかったので、手元に持っいた9万3千円のチケット代を払った時に受け取った7千円を一人に、もう1人のスタッフに1万円のチップを渡しました。チップとしては破格の額ですが、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったそうです。空港には20歳になる娘さんが迎えに来てくれていました。12年ぶりの対面です。娘さんは始めお母さんが見分けられなかったそうです。やせ細ったお母さんは12年前とでは全然違っていたのでしょう。病院に向かうために空港に迎えに来ているはずの車はどういう手違いか見当たらず、2人は娘さんの住んでいるアパートに帰りました。
ポーンティプさんの時に書きましたように、タイでは貧しい人たちは1回30バーツで診察を受けることができます。ただし籍のある所に6年以上住んでいなくてはなりません。ですからAさんの場合はタイを離れて、12年経っていますから、この30バーツの保険の適応外になります。Aさんは自分で診察料を出さなくてはなりません。1回の診察料が2,000〜3,000バーツ(6,000〜9,000円)かかります。彼女は抵抗力が酷く落ちています。そのために、HIVウイルスを減らす薬を飲む必要があります。日本ではとても高いですが、タイでは現在安い薬が出来るようになりました。といっても、1ケ月1、200バーツ(3,600円)かかります。タイの貧しい人には買える金額ではないのです。低所得者層の多いタイでは生活保護費(月500バーツ)を得るのもなかなか難しいことで、申請者の半分が順番待ちだといいます。まして、日本から帰ったばかりのAさんに生活保護費が出るなどとても難しいことです。日本で彼女をケアしていた「女性の家サーラー」よりの支援の依頼があり、私はバンコクのアパートにAさんを訪ねました。Aさんは年老いた母親と20歳になる娘さんと3人で暮らしていました。娘さんとお母さんに会えたのが、Aさんにとつて何よりも良い薬となって、彼女は思っていた以上に元気でしっかりしていました。歩くのは未だ困難で、トイレに行く時、娘さんに手を引かれていましたが、4・5日後に再び訪ねたときには1人で歩けるまで、元気になっていました。しかし生活は困窮していました。Aさんは彼女のお母さんが作った借金を払い、また娘さんもAさんの看病のため、仕事をやめており、アパート代も後2ヶ月しか払えないと訴えました。その後私はチェンマイに帰りましたが、バンコクに住んでいる日本人の女性溝口さんがバーンサバイのボランティアとして、その後何度も訪問し、ケアしてくれました。日本から帰国する際、サーラーからバンコクのエイズサポートグループ「アクセス」を紹介されましたが、自分からなかなか連絡をしようとはしません。「アクセス」のスタッフから電話をもらったにもかかわらず、問題はないと答えてしまったのです。そのため溝口さんが「アクセス」に連絡をとり、スタッフに訪問してもらいました。彼がAさんに病気の説明をして、病院にも紹介状を書いてくれました。しかし、診察代が払えないため、病院には行きませんでした。帰国時にタイ航空が彼女を搭乗拒否した問題が、バンコクでAさんの実名でマスコミに取り上げられたため、彼女の心労が酷くなりました。実は彼女は自分がエイズだとは娘さんにも家族にも伝えてなかったのです。彼女の心労は酷くなる一方で、アパートも引き上げ、一時お姉さん宅で世話になっていましたが、喧嘩になり、其処も出なくてはならず、今度はお兄さん宅で世話になることになりました。今まで、看病してくれていた娘さんとももめてしまって、結局暫く休養を取るために、又、今後の闘病計画を立てるためにバーンサバイに溝口さんに付き添われてやってきました。先ず病院に行って、診察を受け検査もしていただき、カウンセリングも受けて、使う薬も決まりました。診察代が3、200バーツかかりました。ェイズウイルスの抵抗力を強める薬は長く飲まなくてはならない為、その薬代と比処に来る飛行機代はスポンサーを探しました。彼女は帰国の折、CD4が1で最悪の状態でしたが検査の結果は153まで良くなっていました。色々病気を持っているので、200以上に上げないと、病気に負けてしまいます。今はリンパ腺が腫れていて、その為の薬を飲んでいますが、それが収まったら、エイズの薬を始めます。食欲もあって、とても調子が良いのですが、今度はェイズのウイルスを押さえる薬を飲み始めると、副作用の問題との戦いです。Aさんが飲んでいる薬の中にNGO「国境なき医師団」から戴いたカビを押さえる薬があるのですが、それが途中で切れてしまいました。何と1日2錠で150バーツします。10日で、1,500バーツ、1ヶ月4、500バーツ(13,500円)です。とてもじやないですが、バーンサバイでは払えません。緊急のため10日分だけは買うことになりました。切れる前にバンコクに帰り、残りは国境なき医師団に頼むことになりました。看護婦さんはカビの薬が切れるのは絶対良くないというので、帰るのが不安になっている彼女をなだめすかして返しました。バンコクに帰れば、周りの人と仲良くしないと、助けていただけません。これからは病気との長い戦いです。自分から病気に向かっていくのでなければ、病気に負けてしまいます。バーンサバイは彼女がバンコクに帰つてからも機会があるごとに支援をして行くつもりです。溝口さんが付き添ってAさんはバンコクに帰りました。無事ついたと電話が溝口さんからあり、比処に来ている間冷却期間が取れたせいか、皆に気持ちよく迎えられたらしく、とても元気だった、ということでした。彼女の一番の心配事は娘さんのことです。今仕事を無くしている娘さんが、もし自分たちの生活の為に、身体を売らなくてはならないまでに、追い詰られないかと言う心配です。このまま、何の手も打たなければ、そうなりかねません。そんなことにならないようどういう支援が出来るのか祈りつつ日々過ごしています。

4死の誘惑と戦っているBさん
タイ韓国教会の牧師から、私たちがお世話になっているNGO「CAM」のサナン牧師よりの依頼で、Bさんはバーンサバイに今、入所しています。彼女は夫に死に別れ、13歳の男の子が居ます。夫からエイズに感染しました。息子は彼女の父が世話してくれていますが、その父も既に、73歳で舌の癌を患っているため、急に具合の悪くなった彼女の世話は出来ません。社会福祉から、費用が出ることになり、ARV薬を飲めるようになりました。しかし、副作用が出てきました。ある日凄くヒステリックになり、何を怒っているのか、私たちには良く分かりません。CAMのスタッフに来ていただき、話を聞いてもらったところ、私たちが、特に私ですが、言葉が通じないため、酷くいらだっているようです。姉がいるから其処で世話になりたいというので、私たちは納得しました。私は彼女の所に行って、タイ語が分からなくてごめんなさい。しかしあなたの気持ちはとてもよく理解できるよと話しました。暫くして、ナースコールが鳴り、部屋に飛んで行くと、ワンワン泣いて私にしがみつき、「メーコトウカ」と言います。お母さんごめんなさいという意味です。つたない言葉で話し合ったところ、やはりここにおいて欲しいといいました。私はとても婿しいでした。彼女はいつも死が近づいていると考えていて、時々とても、荒れます。その日の午後サナン牧師に電話で、彼女自身が頼んで、病院に連れて行っていただきました。自分の身体に何か異常なものを感じたからでした。彼女の勘は当たっていて、パクテリアが体内に入り、具合が悪かったのでした。急に熱が出たりするのもその所為だったようです。エイズの患者さんは免疫力の無くなる病気ですから、人それぞれ症状も千差万別です。経験の豊富なサナン牧師でさえ、このようなパクテリアに犯されたケースは初めてだと話されました。2人が病院から帰つて来たのはもう10時になっていました。いつも仕事に追われて、疲れ--切っているサナン牧師ですのに、嫌な顔一つせず、世話をしてくださいます。私たちはありがたくて、涙が出る思いでした。注射は打って頂いていますが、時々思いがけない高熱が出ます。そして、彼女を不安に落としいれ、死にたいと泣き出します。ひたすら、つたない言葉で慰めながら、自分の無力に情けなくなります。今、ディレクターの早川さんが会議で5日間バーンサバイを空けている為、HIV感染者でカウンセラーの男性に昼間だけ、彼女のカウンセリングに当たって頂いています。家事とか、介護とかは手伝っていただけませんが、彼が彼女の話し相手になるだけで、不思議に彼女の気持ちが落ち着きます。始めの日はカウンセラーと話しすぎて、その夜熱を出し、又次の日は患者さんの13歳になる息子さんがお見舞いに来てくれて、昼食は皆一緒に賑やかに食事をしました。ただ、Bさんだけが、少し疲れて、見ているだけで、殆ど食べなかったので、心配しました。お見舞いに来てくださるのは凄く本人も喜ぶけど、その後必ず、疲れて熱を出します。その夜も熱を出しました。たとえ熱が出ても、しゃべれる相手があるのが本人は嬉しいようで、機嫌は悪くありません。機嫌が悪いと気持ちが少々疲れても、楽しい時を過ごした方が本人のためには良いようです。
とにかく私としては患者さんのためにもタイ語の勉強が1番大切なようですが、今のところ、先生が来てくださるときだけで、他には時間は取れません。何とかタイ人のスタッフが雇えるとありがたいのですが、今の所は人件費を払う余裕がありません。
物事を判断して、行動に移していかなくてはなりません。タイと日本の文化の違いを、相手の顔を見ながら、素早く判断しなくてはならない事が、一杯です。相手の心を掴んで、それでいて、なめられない様に、厳しいところも見エなくてはなりません。言葉が充分でない分、勘が頼りです。今後もバーンサバイがサポートする方々の1人1人の意思や状況に応じて、きめこまやかに対応していくことをモットーに活動をしていきたいと願っています。これを読んでくださっている多くの方も、其々夢をお持ちでしょう!ひよつとしたら、結構多くの方が何かの役に立ちたいと思っておられませんか?私もその一人で、誰かの役に立ちたい!15年前に夫に先立たれ、始めの5年は夫の死を乗り越える為にだけ働きました。私はクリスチャンです。始めの5年間は<試みに会せないで下さい>としか祈れませんでした。それが、5年経つと、もこもこと誰かの役に立ちたい!神が私に望まれる事に従いたいと願うようになり、<主のみ旨が成りますように>と祈のっていたのです。そして気がついたら、チェンマイに来てバーンサバイで働いていました。しんどいことの方が多い中で、時々ピカッと光る出会いがあるのです。このピカッ!のために比処から離れられません。(バーンサバイスタッフ)

バーンサバイに行ってきました! - 近藤ルミ


みなさん、はじめまして!まずは自己紹介から。バーンサバイの日本事務所(とは名ばかりですが)を務めさせていただいているボランティアの近藤ルミと申します。バーンサバイの大切な資金の窓口のような役割です。具体的に何をやっているのかといいますと、会員・支援者のみなさんからの送金情報を確認次第タイのバーンサバイに電子メールで送るという作業が主です。郵便振替でいただく会費や寄付は、3〜4日後にはみなさんが記入してくださった振替用紙のコピーが我が家に届きますので、お名前や住所などはもちろん、入金金額の内訳(会費1年分が1口いなど)、所属団体や紹介者、メッセージにいたるまで、すべてのデータをバーンサバイに送っています。ですから領収書がタイから送られてくるのです(送料がタイのほうが安いのです!)。この場を借りて、なるべく大きな読みやすい字で、そして必要事項を残らず記入していただきますようお願いします。とても機械的な作業で扱っているわけですから、まちがえのないよう、丁寧にやらせていただいています。あたたかいメッセージに私も励まされますので、郵便局から封筒が届くのがとても楽しみです。資金の活用については会計報告をご参照ください。
さて、11月初めに現地のチェンマイを訪問することができましたので、ご報告したいと思います。タイは10月頃まで雨季にあたりますが、もうそろそろ乾季に入ったと思い込んでいたところ、晴天は1日目のみ、あとはずつとどんよりか雨というお天気でした。しかも、大雨の翌日は町のいたるところで道路が冠水し、ズボンを膝までまくりあげて泥水につかりながら歩く体験もしました。ゴム草履があって助かりました!とても涼しく、寺院や民芸品店などをのぞいて歩くには逆にちょうどよかったです。そう、タイでも北部に位置するチェンマイは、これから冬の季節なのです。セーターやジャケットを着こんで寒そうに歩いている人が多かったです(犬も!)。20°Cそこそこなんですが・・・・・・。
バーンサバイは繁華街から離れた住宅街にあり、緑が多くてとても気持ちよかったです。建物は高床式の伝統的な建築です。床下のハンモックに揺られながら庭のバナナやマンゴーの木々を眺めるというのもアリです。とってもすてきなところなので、みなさんもぜひ機会をつくって訪れてください。今回は患者さんがいらっしゃらなかったので泊めていただき、早川さん、青木さんと一緒に5日間を過ごしました。お二人はまだ暗いうちから起きてメールをチェックし(日本との時差に合わせて)、仕事されていました。なにしろタイのことですので電気・水道などの設備が悪く、雨が降ればたらいを外に出して雨水を溜め断水に備えるという生活ですから、何事もエネルギーと根気を要します。お二人が知恵を出し合って試行錯誤を重ねておられる様子がよくわかりました。とくに患者さんがおられるときは24時間つきっきりの介護が必要で、事務仕事はできなくなります。その際は領収書の発行が遅れることもありますが、どうぞご理解ください。今回驚いたことは、週に1度メイドさんに掃除をしてもらうのですが、掃除の仕方も一から手取り足取り教え、そのうえやりやすいようにあらかじめ部屋をきれいに片付けてあげないといけないことです(その手間といったら・・・・・・)。のんびり。マイペースですが、とても愛想のいい人なのが救いです。チェンマイには日本からの留学生もたくさん滞在しています。学業の傍ら、バーンサバイのボランティアとしても活躍してくれています。領収書やニューズレターなど発送物が多いので、ボランティアの力は絶大です。お気づきでしようか?バーンサバイから届く郵便物の切手はすべてタイの記念切手です。経費削減のため封筒やカードなどはカラフルな印刷ではありませんが、せめてもの気持ちがこの切手に込められています。私もこのニューズレター発送用の封筒の切手貼りを手伝いました。複数の切手を、色の組み合わせまで考えて選んであります。お金はかけられないけど、手間はかけて「手作り」の感覚を大事にしたいというのがバーンサバイのモットーです。また、メールや会員管理などのためパソコンは必須ですから、その方面でも力を貸してくださる方もいます。専門的な技能をもつ方のサポートでバーンサバイは運営されているのです。チェンマイ在住のボランティアさん、今後ともよろしくお願いします!早川さんは地元NGOとのネットワーク活動や研修で飛びまわり、青木さんはデスクで会計や領収書発行などの作業と役割分担しながらも、合間におふたりでボランティアに作業を伝え、ジャーナリストの取材に応じ、原稿を執筆して毎日フル回転です。睡眠不足でぶっ倒れるんではないかと心配になりますが、目の前の仕事を片付けながらも今後の活動のアイデアが次々湧いてくるようで、食事中でも仕事の話中心です。本当に疲れ知らずです。たまにはゆっくり休んでいただかなくては!バーンサバイは立ち上がったばかりで、思つてもみなかったことがあったり、文化の違いからくる問題が発覚したり、まだまだたいへんです。それでも、ディレクターの早川さんを中心に、一歩一歩前進していってます。成果がすぐに数字として出るわけではありませんが、どうぞみなさん暖かく見守ってください。みなさんの継続した支持がなければ活動が成り立ちません。そのためにもぜひ会員になって支えてください。入会や寄付についてのお問い合わせは私の方でも承りますので、FAXでご連絡ください。よろしくお願いいたします。最後に早川さん・青木さん、滞在中はお世話になり、ありがとうございました!(バーンサバイ日本事務所:神戸市在住)

バーンサバイでボランティアをして - 溝口夏奈


私は普段はバンコクにいます。9月26日にバンコク在住の日本から帰国したAさん(患者さん)に付添って、チェンマイのバーンサバイに行きました。ディレクターの早川さんが一時帰国された為、2週間をAさんと共にバーンサバイで過ごしてきました。バーンサバイに到着してすぐにAさんは病院に行くことができました。Aさんは移動で疲れは出ていたものの、病院に行けて安心した様子でした。
Aさんは12年の年月を日本で過ごし、エイズにかかり帰国しました。私がAさんに出会った当初、Aさんが私に言った言葉は、「できることならタイに戻らず日本で死にたかった。」という一言でした。Aさんは日本語が上手です。私は、やっとAさんが祖国に戻ることができてうれしいに違いないと、当たり前の如く感じていたのでびっくりしました。しかし2か月後には家族や親戚ともめ事を起こし、世話になるのがつらくて、Aさんはバーンサバイで休息したいと訴えました。バーンサバイに来る直前にはAさんは食欲もなくバーンサバイが「完全栄養食」をAさんに送り、何とか持ちこたえていました。しかしバーンサバイに来てからは食欲が戻り、すごい食欲旺盛で体重も一気に3キロ増えたので、私たちは安心しました。Aさんはバーンサバイで、文字通り休息できたのではないかと思います。一日3回私達と共に食事をして、それ以外の時はほとんど横になってテレビを見たり、眠っていたり、のんびりくつろいでいました。私には今までのたまりに溜まっていた疲れをひたすら取っているように思えました。というのは、バンコクで家族や親戚と暮らしていた時のAさんはまるで病人とは思えないほど活動的に動き、周囲の方々もそれが普通と思っているようでした。Aさんはエイズにかかっているということを告白できずに帰国しました。家族、親戚に再会して元気なふりをし続けていたのだと思います。私がAさんを訪問した最初の時は、歩けず横になっていましたが、その後歩けるようになってからは、横になっているAさんを見たのは一度もありませんでした。だからバーンサバイで食欲がありよく眠るAさんがありのままでいられるのを見て、つくづくバーンサバイの存在の貴重さを身にしみました。しばらくAさんと同居し、ある程度一緒に住んでみないとわからなかったことが見えてきました。Aさんの今までの生活の仕方や病気の受け入れ方、価値観などが少しずつ理解できました。バーンサバイはそれらを踏まえてAさんの立場を考慮し、目の前に広がっている諸問題を一緒になって考えました。私はバーンサバイに来る前からAさんと関わっていましたが、Aさんからの悩みを聞いてもそれを解決方向に向けることができずに、無力感にさいなまれていました。
しかしバーンサバイのAさんに対する接し方、予見、判断力からは、多くのことを学ぶことができました。そしてまた何よりもバーンサバイは、タイ人によるエイズ関係NGOと密接に関連しているので、Aさんはバーンサバイを通してタイ人のNGOを信頼することができ、それも大きな安心感につながったと思います。私がバーンサバイで主にしていたことは、Aさんの食べたいものを聞いて買い出しに行ったり、洗濯をしたり、またAさんの手の届かない、痛い所やかゆい所を、さすったり薬を塗ったりしました。そのほかバーンサバイのスタンプ押しやパンフレット折りなどを手伝いました。
また驚き感心したことは、バーンサバイには週に3回2時間掃除をしに来てくれる方がいらっしゃるのですが、バーンサバイスタッフは毎回その時間をその方と共に、文字通り汗水垂らして一緒に働くのでした。言葉がうまく伝えられないゆえ、動作で掃除の仕方などをお願いする、ということらしいのですが、この事の一番いいことは、自分達もが掃除をすることで、家のどこが痛んでいるか、また汚れた所などを発見できるという事なのでした。私もやらせて頂きましたが、久しぶりに集中して掃除をするのは年末の大掃除のようで、終わった後にきれいになった家を見るのはとても気持ちが良かったです。-このようにして2週間はあっという間に過ぎました。Aさんは来た当時と明らかに気持ちが変り、自ら帰りたいという気持ちになったので、私はAさんがバーンサバイでリラックス、リフレッシュできたことを本当に良かったと思います。(ボランティアスタッフ:バンコク在住)