インタビュー「バーン・サバイを振り返って」   2010年11月早川文野(聞き手:谷口恭)

2010年10月 



 バーン・サバイ、2002年北タイの郊外にエイズ患者さんのために2人の日本人女性によって設立されたシェルターです。北タイには他にもエイズ施設は存在しますが、バーン・サバイの特徴のひとつは、タイ国籍を持たない人や、何かと社会的に問題があり、言わば他の施設には収容してもらえない人たちも積極的に受け入れていたことです。

 その2人の設立者は、2010年6月、自分たちで運営することを終了し、施設はタイ人に譲りました。これにより、バーン・サバイという名の施設は存続しますが、事実上これまでの運営方針は終了したことになります。

 2人の設立者の1人である早川文野さんにインタビューをおこないました。


谷口 バーン・サバイが北タイのエイズ患者さんに与えた影響は決して小さくないと思います。タイ国籍を持たない方や、もともと社会的に問題があり他の施設では収容してもらえないHIV陽性の方々を積極的に受け入れられていました。バーン・サバイのような施設は社会に必要ではありますが、実際に運営するのは想像を絶するほどの困難があったと察します。まず、早川さんがバーン・サバイを設立されようと思った動機をお聞かせいただけませんか。

早川 私は1980年代半ばから90年代初めまで、東京にある女性のためのシェルターで仕事をしていました。当時はタイやフィリピンからの移住労働者数がピークの時でしたから、私たちのシェルターにもタイ人女性を中心に、人身売買された女性たちが多数入寮してきました。

タイ人女性は300~500万円もの借金を課せられ、その返済のために強制売春をさせられるのです。もしもそれを拒否した場合、殴られたり、レイプされたり、逃亡防止のために麻薬を打たれることもありました。

そのような中で、彼女たちは生命をかけて、私たちのシェルターに逃げ出して来ました。そして、90年代に入った頃、入寮者の中にエイズ発症者やHIV感染者が見られるようになりました。

彼女たちは”売り物”ですから、日本へ来る前に、タイでHIV検査を受けて、ネガティブという結果が出てから日本へ送られます。そして、HIV陽性ではない証拠を見せるように言う客がいるため、日本でも雇用主に連れられて、定期的にHIV検査を受けていました。もちろん検査料は借金に加算されます。

彼女たちのいくらかは日本で売春させられるうちに、ネガティブからポジィティブになるのです。タイで検査を受けた時がウインドピリオドでない限り、タイ人女性は日本で感染しているとしか考えられません。「タイ人女性が日本にエイズを持ち込んでいるのを助けているのか!」、といった電話が、時々オフィスにかかってきましたが、私が働いていたシェルターで出会った女性を見る限り、彼女たちがHIVを持ち込んだのではなく、彼女たちは日本で感染していたのです。

HIVが進行し、具合が悪くなるとタイに帰りたくなりますから、帰国のための手伝いをしました。しかし、当時はタイ国内でもエイズに対する差別がひどく、帰国後に家族が彼女たちを受け入れてくれるかどうか、医療を受けられるかどうかなど、心配なことがたくさんありました。彼女たちがタイに帰国した後のことがまったくわかりませんから、仕事を半分し残した未消化な部分が私自身の中に残りました。そして、いつか機会があれば、タイでエイズに関するボランティアをしたいと考えるようになりました。

その後、私は両親の看病のため、仕事を辞めいったん郷里に戻りました。

そして、両親の健康状態が良くなってきた頃、3ヶ月間チェンマイに行って、村に住むエイズの方たちの家に泊めてもらい、転々としながら、訪問ケアをするボランティアグループに入って、毎日エイズの方たちを訪問しました。

まったくタイ語がわからないにもかかわらず、飛び込んでしまい、今考えますと無謀な行為でした。当時(1990年代半ば)は医療費が自費でしたから、抗HIV薬を服用できる方はほんの一部で、貧しい方たちはハーブを使用していました。そして、毎週お葬式があり、一期一会という言葉を、あの時ほど痛感したことはありません。

当初の思惑では、チェンマイ行きは一度でやめるつもりだったのですが、私が出会ったエイズ発症者やHIV感染者の方々に生き抜いてほしい、また来年来るから元気でいてほしい、という願いから、結局バーン・サバイを開設するまで、8年間毎年通い続けました。

そして2001年に東京のシェルターの同僚であった青木恵美子牧師がチェンマイに移住することになり、いっしょにバーン・サバイを立ち上げないかかという話になり、2002年に開設しました。
 

谷口 これまで何人の患者さんを受け入れられたのですか。また、患者さんの背景についてはいかがですか。

早川 8年間で80名の方を受け入れました。このうち8割が女性、2割が男性です。最年少が18歳、最高年齢が55歳です。30代の方が一番多く入寮しました。そして80名のうち、27名が亡くなりました。新しい方が入寮する時、元気になって門を出て行ってほしいといつも願いましたが、この27名の方たちは残念ながら、その願いがかないませんでした。 
  
8年間のうち、前半の4年間はタイ人やタイで出生した山地民が多かったのですが、後半は近隣諸国から来る移住労働者や山地民、ホームレスの方が大部分でした。ほとんどの方が身分証明書を持たないため、病院に行くことができず、重症な状態で入って来られます。

CD4が10/uL前後でいくつかの日和見感染症を併せ持っている方が多かったです。CD4が0という方も、3名おりました。そのため病院に直行し、入院する場合も多々ありました。バーン・サバイは医療費を全額負担しますので、重症な方が送られてきたのだと思います。

タイ人から移住労働者に比重が移った理由として、2001年から始まった30バーツ医療制度というサービスも要因の1つとして上げられると思います。普通のタイ人でしたら、無料で治療が受けられますので、医療費だけの面から言えば、バーン・サバイに来る必要がなくなったのではないでしょうか。


谷口 相当苦労なさったと思いますが、他のスタッフはいかがですか。タイ人も日本人もスタッフとして働かれていたと思いますが、なかにはあまりにも苦労が多いためにすぐにやめたり逃げ出したりしたスタッフはいなかったのですか。

早川 たとえば日本人スタッフの場合は、1年の契約で来られましたが、皆さん途中で辞めるということはありませんでした。タイ人スタッフも結婚や進学といった理由以外は、契約期間在職していました。この仕事は朝決まった時間に出社して、夕方定時に帰宅できるというものではありません。また休日出勤や時間外労働もありますので、面接の際、給料は安く、時によってはいつでも呼び出しますし、清拭やおむつ替えなどもしますが、できますか、と意志を確認します。この条件で双方合意しましたら、働いてもらうことになります。


谷口 このような施設を運営していると、いつも患者さんから感謝の言葉を聞かされるだけではないかと思います。こちらが一生懸命やっているのに患者さんがそれをわかってくれなくて、患者さんとの関係が上手くいかなかったことなどはありますか。

早川 おそらく私の仕事はよけいなお世話の部分にはいるのかもしれません。自分の頭の上の蠅もおえないのに、他人の蠅をおっているようなものですから・・・。

日本で働いている時からそうでしたが、相手の要望を100%実現できる訳ではなく、その中の一部分しかサポートできないんです。ですから罵倒されることはあっても、感謝されることは少ないと言えます。毎日がジレンマと反省の日々なんです。私ではなく、もっと卓越したケースワーカーだったら、もっとよい解決方法があったかもしれないと考えることもしばしばです。ケースワーカーそれぞれのやり方があると思いますが、患者さんと関係がうまく取れない時、私の場合はしばらく距離をおくようにします。その間お互いに考え直し、もう一度向き合うことにしています。ただ距離をおいている間も、あなたを忘れているのではないという態度は示しますが。


谷口 印象に残っている患者さんや、その患者さんとのエピソードがあれば教えてください。

早川 バーン・サバイを通して出会った方々は、ひとりひとりの人生そのものが重く、すさまじかったです。エイズになって問題が発生したのではなく、生まれてからずっと問題の渦中で生き抜いてきた方たちです。たとえば3歳くらいで捨てられ、ごく幼い時に男性にレイプされ、本来男の子なのに自分を女の子だと思うようになった方、幼い時から毎日父親から殴られて成長した方などなど・・・。心に傷を負った方が大部分でした。

ですから体が良くなっても、心の傷が残っていますので、ひとりひとりと向き合う時は、格闘技のようでした。数十年かけて形成された生活行動や性格が、簡単に変わる訳がありません。少しずつ時間を積み重ねるしかありませんでした。本来私のような軟な人間が相手にできる方たちではないのですから。

全員忘れられない方々ですが、その中であえて1名を挙げるとすれば、アカ族の40歳の女性マリさんがいます。実は彼女はバーン・サバイには入寮していないのですが、私にとっては大きな意味のある方です。

2003年のお正月に、協力関係のあるNGOのスタッフから、時間があるならばいっしょに訪問してほしい患者がいると言われました。私はその時、日本への年賀状書きが残っていまして、急ぎかどうか聞きましたら、急ぎではないと言われましたので、それでしたら次回にしたいと答えました。そして5日後、また同じことを言われましたので、今回は同行しました。

車から降りましたら、「うーうー」という声が聞こえてくるのです。そして家の戸口に立った時の異臭はすごく、暗い部屋の中を見ましたら、ひとりの女性が寝かされており、その周囲を虫や蟻が這いまわっていました。私たちはすぐに彼女を外へ移し、部屋の掃除から始めました。おむつは高価ですから、貧しい彼女の家族は買うことはできません。そのため、マットレスは便と尿でぐしょぐしょでした。すぐにNGOのスタッフにマットレスとおむつを持って来るように連絡しました。

それを待つ間、マリさんの体を洗いました。褥痩(じょくそう)ができ、乾いた便がお尻にはりついた状態でした。彼女はもう両目が失明し、思考能力も全くない状態でしたが、体を洗った後は少しほほ笑んだように見えました。私は、5日前のことを悔みました。年賀状よりももっと大切なことがあったのに、すぐに来なかったことを詫びました。そして最後くらい人間としての尊厳を取り戻してほしいと思い、バーン・サバイに連れて帰ろうと考えました。しかし当時は借家でしたので、これほど重症の患者さんを入寮させるのは、大家さんが許してくれません。そのため、症状を良くしてからということになり、まず病院に入院するこにしましたが、マリさんはビルマから来た方で、身分証明書など何も持っておらず、病院側に少し時間をほしいと言われました。

翌日に入院の許可が出ましたが、その連絡の2時間後に、マリさんは息を引き取りました。彼女は年老いた祖父母と9歳の息子さんと同居していました。彼女が元気な時は、売春をして一家を支えていたましたが、弱ってからは祖父母がよその家の手伝いをして得るわずかなお金で生活をしていたようです。

マリさんは、「何をおいても必要な時はすぐに訪問しなければならない」という楔をバーン・サバイにうってくれた方です。バーン・サバイのニュースレターで私が書く部分は「マリ通信」という題名にして報告していましたが、この名前は実はこのマリさんが残してくれたものを忘れないために、そして彼女に捧げるためにつけたものなのです。


谷口 バーン・サバイには多くの日本人が訪問していたと思います。また訪問したかったけど実現できなかった人も大勢います。あるいはウェブサイトや書籍などでバーン・サバイに興味をもった人も少なくないと思います。彼(女)らに何かメッセージはありますか。

早川 バーン・サバイを通じて、ほんとうにたくさんの方にお会いしました。そしてたくさんの方々に支えていただきました。実際的なケアは私たちスタッフがさせていただきましたが、支えて下さった方々に大きな力をもらって、皆さんといっしょにバーン・サバイという家ができあがったと思います。

今この地球という同じ場所で、同じ時間を私たちは共有しています。でも、どこに生まれるかどうかで、本来同じ重さであるはずの生命が、軽んじられる方々がいます。私たちは親も国も選べません。私がもし日本ではなくタイで生まれていたら、私がバーン・サバイに入寮していたかもしれません。この広い世界の中で、エイズだけではなく、さまざまな問題の渦中で生きている方々の現状を知っていただきたいと思います。すべてはまず知ることから始まるのではないでしょうか。


谷口 バーン・サバイはついに今年(2010年)終了となりました。その経緯をお聞かせいただけますでしょうか。

早川 この6月いっぱいで日本人運営のバーン・サバイは終了し、今後はタイ人の手で運営されます。バーン・サバイを立ち上げた時、ここはタイだからぼちぼちやろうと青木と話し合いましたが、最初から末期の方で、それ以後フルマラソンで駆け抜けてきました。毎日問題がおこり、何とかクリアして進んできましたので、8年間続けられたのは奇跡のようなものでした。

私たちの活動は、プラスの面とマイナスの面を併せ持っています。決して良いことばかりではありません。長いかかわりの中で、退寮者の中に、バーン・サバイに対する甘えが見えるようになってきました。私たちのかかわり方にも責任があったと思います。病気の方が相手ですので、具合が悪くなりますとどうしてもサポートをせざるをえません。これを何度か繰り返す間に、依存度が高くなる傾向が見えてきました。安易に生きても、どうせバーン・サバイがあるからいい、、、というような。あれだけ過酷な状況の中で生き抜いてきた方たちですから、本来底力を持っています。しかし、私たちがかかわることによって、その自立力を弱めているのではないかという思いを持つようになりました。

エイズであろうとなかろうと、私たちは自分自身の力で生きていかなければなりません。具合が悪い時は別として、元気になったら自分の足でしっかりと生きてほしいと思うのです。それで、一度距離を置くことも必要ではないかと考え、退くことを決心しました。開設した当初から、いつかはタイ人に委ねようと考えていましたので、ちょうどその時期かなと思いました。


谷口 新たにバーン・サーイターンを始められるとのことですが、この施設はどのような施設なのですか。バーン・サバイとの違いはどのあたりにあるのでしょうか。

早川 バーン・サーイターンは職業訓練と作業所を併せ持ったNGOです。「バーン」は家、「サーイターン」は小川という意味です。社会的に不安定・不利な立場にある方たちに、「機会」という水を注ぎ、小さな源流から小川になり、いつかは希望という大河へと流れて行っていただきたいという意味を込めました。

患者の方々とバーン・サバイで出会い、死の淵から生き返って、元気になり退寮します。先ほどお話ししましたように、何も身分証明書を持たない移住労働者や、たとえタイ人であっても読み書きができない方が多いですので、元気になってもなかなか就職先が見つかりません。ある方はスタッフがいっしょに仕事を見つけに行き、30ヶ所くらい回ってようやく見つかったということがありました。仕事がなければ食べていけませんし、心身ともにあまりよい状態にはなりません。結局また盗みをしたり麻薬の売買をして、刑務所に入る方もでてきました。そのため、手に技術をつけたり、仕事を提供することによって、少しでも就職の機会を増やし、自立につなげたいと考えるようになりました。

今回は元気になったエイズ発症者/HIV感染者の方々が対象です。まずカード作りと裁縫から始めます。製品ができましたら、日本でも販売させていただくつもりです。そして将来的には靴修理やマッサージなど、職種を増やしていこうと考えています。身の丈にあった小さなものから始め、少しづつ重ねていこうと思います。ただ家庭訪問はバーン・サバイの時と同じようにするつもりです。家庭にいても問題のある方がいますし、情報を一番必要としている方に情報が届かないという現状もありますので、そのフォローができればと思います。

今はまだ準備段階で、本格的な始動は来春になると思います。この分野は初めてですから不安ですが、皆さまに見守っていただければうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。


~インタビューを終えて~

 早川さんの言葉にもありましたが、バーン・サバイに入居していた人の多くは、タイ国籍がなく公的支援を受けられない、読み書きができない、幼少児のトラウマがある、犯罪に手を染めたことがある、などといった背景があり、一筋縄ではケアができないケースが多々あったに違いありません。

 単にエイズに詳しい、エイズケアの経験がある、あるいは他人に奉仕したい、などといったものだけでは到底勤まる仕事ではなかったはずです。

 私自身も何度かバーン・サバイにお邪魔したことがありますが、早川さんを初め、日本人やタイ人の他のスタッフも一生懸命に患者さんのケアをされていたことに深い感銘を受けました。インタビューの中で、「罵倒されることはあっても、感謝されることは少ない」と話されましたが、これは早川さんの謙遜であり、実際には患者さんたちは早川さんらの真摯な態度に多大な感謝の気持ちを持っています。バーン・サバイを訪れる度に、「自分ももっと頑張らねば・・・」と鼓舞されていたことを思い出しました。

 新たにバーン・サーイターンを始められるとのことですが、早川さんのことですから、おそらくバーン・サバイ時代と変わらないくらい尽力されるのではないかと私は思っています。居住ではなく通所という形態をとられるとのことですが、家庭訪問はされるようですし、そのうちに、住むところがなく多くの問題を抱えたHIV陽性の患者さんと一緒に住むことになってしまうのでは・・・、と、そのようなシーンが私の頭をすでによぎっています。

 GINAがバーン・サーイターンにできることはわずかではありますが、早川さんのような日本人がチェンマイの郊外で貢献されていることは引き続き伝えていきたいと考えています。

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