11年の時が流れて2014年11月早川文野

11年の時が流れて   2014年11月早川文野


  私は、この12年間、タイのHIV/AIDSの人々とかかわってきました。1人1人が直面している問題は、エイズになったから起きたものではなく、生まれた時から抱えている問題で、それにエイズが加わったものでした。

 その中の1人、エーさん(仮名)の半生について、書きたいと思います。

 私がエーさんに出会ってから、今年で11年になります。いろいろなことがたくさんあり、気がついたら11年の時が流れていました。20代後半だったエーさんも、今は40歳になりました。

 先日いっしょに昼食を食べた際、「初めて会った時は、CD4(免疫状態を表す指標。HIVが進行すると低くなる)が6しかなくて、死ぬと思っていた。今は590、増えたよね」と、笑っていました。私は、心の中で、生き抜いてくれてよかったと思いました。

 エーさんは、5人兄弟の末っ子で、三男です。父親は、採石場で発破士として働いていましたが、Aさんが幼い時に、愛人を作り、家族を捨てました。父親はアルコール依存症で、毎日酒を飲み、母親に暴力をふるったそうです。

 残された母親は、エーさんと10歳上の次女を連れて、長男たちが住むバンコクへ行きました。そして、母親も子どもたちと同じ建設現場で働き始めました。母親たちが仕事に行っている時に、次男が姉に性的ないたずらをするため、姉は我慢ができなくなり、エーさんを連れて、家出。

 エーさんとこの姉はとても仲がよく、エーさんはこの姉が大好きでした。しかし、姉は映画館の中にある売店の店主にエーさんをあずけ、そのまま戻って来ませんでした。それはエーさんが3~4歳の時のことでした。エーさんはそのまま売店の仕事を手伝い、店主から食事をもらっていました。

 ある日、エーさんは、映画を見に来た男性客にトイレに連れて行かれ、レイプをされました。その後も何度も同じことをされました。このことにより、本来は男性として生まれたエーさんですが、自分は女性だと思うようになりました。

 その後、エーさんは保護され、チェンマイの養護施設に入りましたが、家族が恋しくて、何度も施設を逃げ出しました。そして、10代初めで、ストリートチルドレンになりました。身寄りも、お金も、何もないエーさんは、街角に立ち、売春をして暮らすことしかできませんでした。

 エーさんや私が出会ったHIV/AIDSの人々を見ていて、私たちは生まれる国も親も、選べないということを痛感しています。たとえどんなに理不尽でも過酷な状況でも、そこで生きなければなりません。

 10代の終わりに、ストリートチルドレンを支援するNGOが無料でHIV検査をすることになり、エーさんも検査を受けました。そして、感染を知りました。その時、「やはり、、、」と思ったそうです。20年近い年月が流れた今だから、冷静に考えられますが、告知をされた時は、悲しみ、怒り、苦しみなどのさまざまな思いや葛藤があったのではないかと思います。

 HIVの感染を知った後も、生きていくために、売春を続けましたが、具合が悪くなり、入院。そのままでは命を失うと考えたNGOのスタッフが、HIV/AIDSの人々のシェルター「バーンサバイ」に送ってきました。そこで、私はエーさんと出会いました。

 抗HIV薬の治療を始め、CD4も増えました。体調が良くなり、シェルターを出る時が来ましたが、仕事がありません。入寮中に絵画の才能があることがわかり、グリーティングカードを作成してもらい、バーンサバイが給料を払うということになりました。これが現在の「バンサーイターン」に続く自立支援事業の始まりでした。

 自活するようになったエーさんに恋人ができ、同居するようになりました。エーさんは自分がエイズ患者であることを恋人に隠していたので、抗HIV薬を飲まなくなり、また体調が悪化しました。160台まで増えていたCD4が45まで下がっていました。また0からやり直しです。

 その後、結核、トキソプラズマ脳炎などの日和見感染症をおこし、何度か入退院を繰り返しました。そして、エーさん自身の中に、治療に対する姿勢ができるまで、数年がかかりました。

 その後、バーンサバイの支援者のサポートで、料理が上手なエーさんは、自分が住むアパートの1角を借りて、小さな食堂を開きました。近所のお客さんが来てくれましたが、家主がアパートを取り壊すことになり、立ち退きをせざるを得なくなりました。

 エーさんは夢が破れ、食堂を閉めました。エーさんは計画が思い通りにいかない時や、失望した時に、大きく落ち込み、這い上がるのに、とても時間がかかります。どうせ、またうまくいかないんだ、、、どうせ、どうせ、、、という思いがあり、なかなか前に進めません。

 これは彼女だけではなく、私がバーンサバイで出会った大部分の方々に共通する点です。皆さん、幼い時からあまり愛されず、しっかりと抱きしめられた経験がありません。生まれた時から重い問題をかかえ、生き抜いて来た人々です。そのため、大人になっても、心の底に深い傷を残しているように思えます。

 エーさんは、また売春をするようになりました。私は、エーさんが自立できる道を見つけなければならないと思い、彼女と話し合いました。エーさんはバティック(ろうけつ染め)が上手なので、職業訓練学校へ行って、技術をみがいたらどうかと話しました。この学校は安い授業料で習えますので、エーさんでも通うことができます。ちょうど私が日本へ一時帰国する時でしたので、私がチェンマイに戻ったら、結論を出すということになりました。

 しかし、私が留守中に、エーさんが麻薬の売買をして、逮捕されてしまいました。6年の実刑判決が出ましたが、模範囚ということで、刑期が3年7ヶ月に短縮され、昨年(2013年)の6月に出所しました。

 出所後6ヶ月間は、身元引受人の元で、レポートを書き、提出しなければなりません。私は日本人ですので、身元引受人にはなれませんので、エーさんと長くかかわってきたNGOの方が引き受けて下さいました。

 エーさんは、身元引受人が運営している山地民の児童施設に身をよせました。エーさんは、料理が上手ですので、この施設で食事を作って、2,000バーツ(約6千円)の月給をもらっていました。

 昨年末、この施設に子どもを預けている親たちに対して、エイズ勉強会が開かれました。その折、施設長である身元引受人から、エーさんの体験について、話してほしいと突然言われました。世話になっている人ですから、拒否ができなくて、エーさんは親たちに自分の話をしました。

 子どもたちには、エーさんがHIV感染者であることは言っていませんでしたが、親たちから子どもたちへ伝わりました。そしてエーさんが作った食事を食べない子どもたちが、出てきました。だんだん施設の居心地が悪くなったこと、保護観察期間が終了したことで、今年の2月初めに、チェンマイに戻りました。

 タイは、政府、NGO、HIV/AIDSの人々が協力して、エイズ問題と闘ってきました。その結果、差別や偏見が依然と比べ、少なくなっています。しかし、エーさんの作った食事を食べない子どもたちがいるということも、事実です。この垣根をどう越えていくかを、今後も考えなくてはならないと思います。

 エーさんは現在、20年以上かかわっているストリートチルドレンのNGOのオフィスの一室に住み、そこの仕事を手伝いながら、生活をしています。そして、バンサーイターンのクリスマスカードを作り、生計をたてています。

 エーさんは言います。「とにかく1日でも長く生きること。生きていれば、医学が進歩し、いい薬ができるかもしれない。だからタイのHIV/AIDSの人々も日本やその他の国のHIV/AIDSの人々もあきらめないで、生き抜いてほしい。ともに闘ってほしい」と。

 11年前は人生や生命を斜めからみるようなところがあり、生きてもいいし死んでもいいというような感じの人でしたが、今は積極的に前を見て、生き抜こうという気持ちを持っています。料理を作ることが好きなエーさんは、いつかまた小さな食堂を開きたいという夢も抱いています。これからの人生も決して平坦なものではないでしょう。それでも、少しでも夢に近づくように、傍らで見守っていきたいと私は思っています。
 

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